Worry Cake 04

ミルフィーユ

 時計の針は午後九時を指していた。今千葉博仁がいる、この教室は最終的には作品となる。博仁の所属している美術部は今年の大学祭の共同作品で、教室を三部屋借り、海、空、大地を表現することになった。大学祭まであと三日に迫っているにも関わらず、作品は全体で半分ほどしかできていない。教室という、ある程度の空間を作品にするのだから時間がかかるだろう、と計画を立てていた。しかし、計画通りにはできなかった。それは、多くの部員が大学祭まで余裕があると高を括っていたため、当初の計画ほど作業が進まなかった。ようやく作業が進み始めたのは、大学祭まであと一週間に迫ったときだった。それでも、中にはあと三日しかないという状況でもあまり手を動かしていない者もいた。
「……ってことがあったんだよねー」
「えーっ!なにそれー」
「それはないわー」
 女子数人の笑い声と数人のうちの誰かが手を叩いた音が響く。何人かの部員はその話し声のしている方を振り返った。博仁も女子たちのほうを見た。座って作業をしている彼女たちの足元にパレットが置かれているが、絵具が乾いている。作業をせずに喋ることに夢中であることがわかる。博仁は女子たちの元に向かった。
「なあ、あんたら。やる気ないんなら帰ってくれない?」
「なに。作業してんじゃん」
 女子たちは座っている状態から博仁を睨みつけていた。博仁もわざと不愉快に思っていることを隠さずに女子たちと対峙している。険悪な空気に他の部員たちは、はらはらしている。
「ほとんど進んでないじゃん。時間ないことはわかっている?」
「大丈夫だって。それに焦ったっていい作品できないじゃない」
 リーダーらしく女子がそう言うと別の女子たちが「そうよ、そうよ」と援護する。
 博仁は、嫌気がさしてきた。女子たちの考え方もだが、女子の群れるという行動も理解できなかった。
「大体あんた、部長でもなんでもないじゃん。なんでそんなこと言われなくちゃいけないのよ」
「合同で作品を造るのに部長とかそういうものは関係ない。とにかく、それ以上作業ができないんなら……」
 帰れ、と博仁が言おうとしたときに別の部員二人が仲裁に入ってきた。その部員のフォローで女子たちは不満そうながらも作業に戻り、博仁も宥められて作業へと戻った。作業に戻ってから女子たちは先ほどに比べて小さいながらも、博仁の耳には十分入る声の大きさで「なに、あいつ」や「自分中心に物事動くと思ってさ」など悪口を言っていた。博仁は無視して自分が担当になっている作業に没頭した。

 

  作業を終え、解散したのはあと三十分で日付が変わるという時間だった。博仁は下宿しているため、多くは実家から通っている部員たちとは帰宅する方向が反対である。博仁は女子たちを思い出しながら歩いていた。理解ができないのだ。ずっと一緒にいて、毎日毎日同じような話をして、同じような反応をすることになんの意味や意義があるのだろうか。あの女子たちの中にはもしかしたら、嫌われることを恐れて無理やり話題を合わせている人もいるかもしれない。そこまでして一緒に行動する、という考えが博仁には理解できないのだ。ある程度相手に合わせることは必要だが、合わない人物と無理やり行動を共にするくらいならば独りでいたほうが気楽だろうと思う。また、その集団の行動によって周りの人に迷惑がかかっていることに心を痛めることもない。そして、その迷惑に対して博仁は注意を必ずする。それがたとえ自分の敵を増やすことになったとしても、迷惑がかかっているということに気がつかずにいることが博仁は不愉快なのだ。他人から見れば決して器用とは言えないが、博仁はそれが自分だと思っている。
 きゅるる、と腹の虫が鳴った。朝食を最後に解散するまでなにも食べていなかったのだから、無理もない。家に帰ってからなにか作ってもいいが、身体的にも精神的にも疲れているので博仁は全国チェーンの牛丼屋で食べて帰ることにした。次の角を曲がり、真っすぐ進んだところに牛丼屋がある。博仁は角を曲がった。牛丼屋まであと数メートルというところで、博仁はあることに気が付いた。牛丼屋の看板が見当たらない。博仁は様子を見るように歩く速度を緩めた。牛丼屋のある位置にまで来ると、オレンジ色の淡い光が灯っていた。しかし明かりを灯していたのは牛丼屋ではなく、一軒のカフェだった。深夜に営業していることも考えるとバーも兼ねているのかもしれない。看板はなく、店名はわからない。道を間違えたのだろうか、と思ったが、毎日通っている道をそう簡単に間違えるはずがない。気味が悪くなった愛里は家に向かおうとした。が、その気持ちとは裏腹に体はカフェバーの中に入ろうとしていた。
 カウベルが、鳴った。

「いらっしゃいませ」
 マスターらしき若い男が博仁を出迎えた。マスターは片眼鏡をしている。顔には笑みを浮かべているが、博仁はそれがなぜか気味悪く思えた。
「こちらへどうぞ」
 博仁は案内されたカウンター席に腰を下ろした。ふと、博仁はひとつ空けて隣に少女がいることに気がついた。こんな夜遅くに店にいることから、マスターの家族なのかもしれない、と愛里は思った。
「メニューでございます」
 博仁はメニューを受け取り、開いた。値段はどれも手ごろで、軽食やケーキのほかにアルコールの名前も載っていた。博仁はサンドウィッチとケーキセットを注文した。ケーキはミルフィーユにした。マスターは注文を受けると、奥のキッチンに入り早速サンドウィッチを作り始めた。博仁はその間、店内を座ったまま見回していた。しっとりとしたオレンジ色の照明に、四人ほど座れるテーブル席二つに二人座れるテーブル席が二つ、カウンター席は五つイスがあり、二十人も座れない広さ。流れるジャズ。多くの人が「落ち着く」というと思われるこの空間が、なぜか博仁にとっては軽い恐怖が襲ってきた。そう、例えるならば真っ暗なところで見知らぬ誰かの気配がする、いつこちらになにをしてくるかという恐怖に似ている。しかし、一度入った店から何も食べずには出ていきにくい。
「サンドウィッチでございます」
 マスターが皿に乗せたサンドウィッチを博仁の前にそっ、と置いた。卵サンドとポテトサラダサンドとハムサンドが三角形に切られていて、パセリが添えられている。博仁はちらり、とマスターを見る。マスターは変わらず笑みを浮かべている。それに店内と同じように恐怖を感じながらも、卵サンドを口に運んだ。マヨネーズと塩のバランスがいい。次にポテトサラダサンド、最後にハムサンドを食べる。どれもおいしく、きれいに平らげた。一息ついていると、マスターが「ケーキをお出ししましょうか?」と訊ねてきた。博仁は頷いた。さきほどの満足感から一変して再びじわじわ、と恐怖が博仁の中に侵入してきた。速く食べ、家に帰ろう、そう博仁は決心した。
「お客様、なにかお悩みではありませんか?」
「は?」
 博仁は「いえ、別に」と返事をした。博仁はいきなりプライベートなことを訊ねられ、警戒心を強めた。 カチャリッ、と音がして、目の前にミルフィーユとコーヒーが出された。パイ生地のバターと甘いカスタードクリームの香りが鼻腔に入る。博仁はナイフとフォークを握り、ミルフィーユにナイフを入れる。が、切ろうと力を入れるとカスタードクリームがぐちゃり、とはみ出た。それを見たマスターが、博仁に声をかけてきた。
「ミルフィーユには、食べ方にはコツがあるのですよ。……お教えしましょうか?」
 博仁はマスターを見る。マスターは店に入ったときと変わらない笑みを浮かべている。
「……いいえ、このまま食べます」
 博仁は意地を張り、はみ出たカスタードクリームをパイ生地に塗り、パイ生地をぽろぽろ、と皿の中に崩しながら食べきった。なぜか、マスターの言うとおりの食べ方をすると、自分の性格そのものが変わってしまうような気がしたのだ。
 博仁は、コーヒーには一切口をつけず会計を払って、駆け足で店を去った。

 マスターはカスタードクリームとパイ生地のカスが残っている皿を下げた。少女は絵本から目を離してマスターに訊ねた。
「今日は、どうして悩みを結晶にしなかったの?」
「……今日は、悩みを結晶化しなかったんじゃなくてできなかったんだよ」
 マスターは食器を洗いながら少女に説明を始めた。その背中には悔しさがにじみ出ていた。
「ミルフィーユはね、少し特別なんだ。
 フランス語でミルとは『千』、フィユとは『葉』という意味がある。その名のとおりたくさんの層によってできているパイ生地とカスタードクリームのケーキであるミルフィーユは普通に食べれば、カスタードクリームが横にはみ出る。だから、うまく食べるためにコツがあるんだ。その食べ方をさせないと、悩みを聞いても結晶にできないんだよ。
 それにどうやら、彼女は今悩んでいないようだからもし結晶にできたとしても、たいしたものにはならないだろうね」
 少女はマスターの背中を見つめて、また訊ねた。
「このお店は悩みを持った人以外に来ることができないんじゃないの?」
「まあ、そうなんだけれどね。ごく稀に悩みを抱えていない人が入ることもあるんだ」
 マスターは手に泡をつけたまま振り返って少女に言った。
「けれど、次はいい結晶が手に入りそうな気がするんだ」
 マスターはにやり、と口は裂けそうなほどに、目は三日月のように細くして笑った。