Worry Cake 05

ティラミス

 カランカラン、とカウベルが鳴る。
「いらっしゃいま……」
 マスターのあいさつが途中で止まったことに気がついた少女は入口のほうを見た。そこには男が一人立っていた。その男は頭のてっぺんから足のつま先まで、ずぶ濡れだった。髪の毛の先や服の袖からぽた、ぽた、と雫が落ちて男が立っている周りに水たまりができている。
「お客様!大丈夫ですか?」
 マスターは新品のタオルを棚から取り出し、少女に手渡し、少女はイスから下りて男にタオルを手渡した。男は少女に「ありがとう」と礼を言い、タオルを受け取り、全身を拭いた。拭き終えると、次に少女はきれいに畳まれたシャツとズボンを差し出した。
「自分の物ですが、よろしければ着替えてください」
「すみません。それではお借りします。あの、お手洗いはどこでしょうか?」
 マスターが場所を教えると、男は着替えるために手洗いに行った。少しすると、マスターと同じような服装になった男が出てきた。さっきは全身ずぶ濡れだったため、三十代から四十代に見えたがよく見てみると男は意外と若い。二十代後半くらいだろうか。
「ありがとうございました」
「いえ、サイズがあってよかったです。こちらにどうぞ」
 マスターは男を少女からひとつ空けた席を勧め、コンソメスープを入れたカップを男に渡した。男に渡したタオルを預かる。男は「すみません、汚れてしまったのですが……」と言ったが、マスターは気にしないように言った。マスターはタオルを見る。すると、赤く滲んでいるところがあった。おそらく血だろう。マスターは驚いたが、すぐに自分の中で結論が出たため、男に血のことは訊ねなかった。変わりに別のことを訊ねた。
「……なにか、お食べになりますか?」
「あ、じゃあなにかおすすめをお願いします」
「かしこまりました。食後にお飲み物はどうされますか?」
「あ……じゃあ、ミルクティーのホットで」
 マスターは奥のキッチンへと向かった。カチャカチャ、と音がする。
 少女は、男をじっ、と見つめた。その視線に気がついたのか、男は少女に話しかけた。
「僕の顔になにかついているかい?」
 少女はその問いに首を横に振った。そして、言った。
「今までのお客さんと違う感じがするから」
 男はにこり、と優しい笑みを浮かべて少女に言った。
「このお店にはよく来るのかい?」
「ううん。ずっといる」
「そうか。居心地よさそうだね」
 少女はこくり、とうなずいた。
「マスターとは兄妹なの?」
「ううん。けど、気がついたときにはマスターといっしょにいた」
 少女はそう言ったが、彼女にはマスターに出会うまでの記憶が一切ない。名前も両親のことも、兄妹がいたのかどうかもわからない。しかし、少女はそれでもいいと思っている。たとえ、マスターが人間ではないとしても。
「そうなんだ。僕には妹がいるよ。……もう会えないけれどね」
「どうして会えないの?」
 そう少女は訊ねると男は少し悲しそうな笑みを浮かべて、話し始めようとした。だが、カチャン、と男の目の前に皿が置かれた。皿の上にはサンドウィッチが乗っている。
「どうぞ。サンドウィッチでございます」
「ありがとうございます」
 男はハムサンドを口に運んだ。男はサンドウィッチを食べながら、さきほどの少女の問いに答えた。
「僕には、妻がいたんだ。結婚して……二年とちょっとかな」
 男が話しながらサンドウィッチを食べ終え、次の言葉を紡ごうとしたときに、マスターが男の前にケーキを乗せた皿を置いた。ケーキはティラミスだった。男は注文していない物が出てきたことに少し驚き、マスターを見た。マスターはにこり、と笑い「サービスです」と言った。男は「それでは」とティラミスを食べた。マスターはティラミスを食べている男を見て、実に満足そうだったことを少女は見逃さなかった。少女は男に話の続きを催促した。男は再び話を始めた。

 結婚して、二年だって話だったね。
 結婚してから毎日仕事から帰って、彼女の顔を見ると安心するんだ。妻もそうだ、と思っていた。今日あったことを話しては笑い、悲しいことを話しては励まし合った。僕は、彼女を愛していた。けれどね、彼女が愛していたのは、僕じゃなかったんだ。……うん、好きだから結婚したんだ。僕はね。……けれど、彼女は僕以上に好きな人がいたんだ。それも、結婚する前からね。……そうだね、僕もそれを知ったとき、なんでそれじゃあ僕と結婚したんだろう、って思ったよ。
 だから、僕は彼女と付き合っている男に会った。彼と彼女の三人で話したよ。話は進展のないまま終わった。彼女は僕と共に生きるか僕と別れるか、今すぐには決められない、と言った。そのときは、まだ僕にも彼女と共に生きるチャンスがあると思っていた。けれど……なかったんだ。それに気がついたのは……この店に来てからだけれどね。だから、僕は妹だけじゃなくて、友達にも両親にも、彼女にも会えないんだ。

 カチャン、と音がする。マスターが男に食後のミルクティーを出した。
「ティラミスというケーキの語源は、イタリア語で『私を元気づけて』という意味があります。けれど、それは意味が転じた結果です。元々の意味は」
 男を真っすぐ見つめるマスターの顔からは笑みが消えていた。

「『私を引っ張りあげて』といいます」

 マスターのその言葉を聞いた男は目を大きく見開いた。そして、マスターが自分の状態を察していることに気がついた。男は悲しそうに笑みを浮かべた。マスターは静かに言った。
「引っ張りあげてもらえると、いいですね」
「……ええ」
 男はミルクティーを飲み干すと、腰を上げた。
「おいくらですか?」
「お代は結構ですよ」
 男はそういうわけにはいかない、と食い下がったが、マスターは男を説得した。男はお辞儀をして、店を後にした。

 マスターはパチンッ、と指を鳴らした。すると、いつものように男の悩みが結晶化されていく。しかし、色は虹色ではなかった。紫一色でまるで磨いたアメジストのようだ。雫のような形の結晶をマスターは嬉しそうに、いろんな眺めていた。
「結晶、ほかの物と色が違う」
「ああ、気がついたかい?この結晶はね、普通の結晶とは違うんだ」
「どう違うの?」
 少女はマスターに訊ねた。マスターは結晶を眺めながら言った。
「きっと、時間が経てばわかるよ。それまで、少し考えてごらん。ヒントはそうだね……あのお客様は、どういう存在かを考えればいいかな」
 マスターはそれからずっと結晶を眺めていた。少女は絵本を閉じ、なぜ結晶の色が違うのか、あの男はどういう存在なのか、考え始めた。

 全身ずぶ濡れだった男が店に来てからいくらか経った。この店には時間という概念がないため、どれくらい経ったかはわからない。ある日、マスターが珍しく新聞を読んでいた。日付は十二月二十日となっていた。
「……どうやら、引っ張り上げてもらえたようだね」
 マスターはある記事を見てぽつり、と呟いた。

『夫殺害容疑で女性と内縁の夫逮捕
 夫を殺害したとして××県警は十九日、無職の木ノ内真佐子容疑者(二十八)と内縁の夫の関口亮容疑者(二十八)を殺人容疑で逮捕した。
 同署の発表によると木ノ内真佐子容疑者と関口亮容疑者は夫で会社員の木ノ内恭太郎さん(当時二十八歳)を気絶させ拘束した上で、今年十月十日〇〇港から海に沈めたと供述。木ノ内真佐子容疑者、関口亮容疑者は「保険金で二人一緒に暮らそうと思った」と容疑を認めている。
 木ノ内恭太郎さんは十九日午後二時ごろ、地元の漁師に仕掛けていた網にからまっているところを発見された』