Worry Cake 06

レープクーヘン

 少女はいつものように、お菓子の家の絵本を読んでいた。マスターは今席を外している。一体なにをしているのか、少女はわからないが、気にしていない。
 そのとき、カランカラン、とカウベルが鳴った。少女は入口を見る。すると、そこには少女より二歳か三歳ほど年上であろう少年が立っていた。少年はあちこちすり傷切り傷をこさえていて、顔も腕や足も転んだのか泥まみれだ。少女は、この少年を見たことがある。ついさっきまで読んでいた絵本に出てくる少年にそっくりなのだ。少年は少女を見て、目が大きく見開かれた。
「グレーテル……。やっと、やっと会えた!」
 少年は少女の元に走った。少年は少女の手を両手で握った。
「グレーテル!よかった、無事で。さあ、早くここから出よう」
 少年は少女の腕を力強く引っ張った。少女は引っ張られた方向と反対に体を動かした。少女の腕が少年の手から離れた。
「あなた、誰?」
 少女がそう訊ねると、少年はすごく悲しそうな顔をした。
「グレーテル……。僕のことを覚えていないの?僕だよ!お前の兄のヘンゼルだよ!」
「私の……お兄ちゃん?」
 マスターと出会う前の記憶がない少女は戸惑いを隠せなかった。しかし、ヘンゼルという名の少年はそんな少女に構わずもう一度腕を掴んだ。
「早く行こう、グレーテル!あいつは……今いないな。あいつに見つからないうちに、早く物語の世界に帰ろう!」
「なにをしている」
 少女とヘンゼルは声のするほうを見た。カウンター内にはマスターが、眉をひそめてヘンゼルを睨みつけていた。少女は今まで見たことがないマスターの表情に恐怖を感じた。ヘンゼルは声を震わせながら言った。
「お、お前からグレーテルを取り戻しにきたんだ!」
 マスターは鼻で笑うと、腕を組んで言った。
「取り戻す?笑わせる。お前がこの子を拒絶したのだろう。それなのに、今さらなにをしにきた?後悔の念に駆られ、この子を探しにきたか?そんな資格お前にはない。お前が、この子の存在を、物語から追い出したのだろう」
 少女はマスターがなにを言っているのかわからなかった。少女はヘンゼルを見た。ヘンゼルは悔しそうにマスターを睨めつけていた。
「お前はこの子を捨てた。だから、俺がここに連れてきた。俺はずっと、この子がほしかったからな」
 いつの間にかマスターの口調も変わっていた。マスターはカウンターをバンッ、とグーで叩いた。すると、入口の扉が突然勢いよく開いた。少女は店の外を初めて見た。外は真っ暗でなにも見えない。すると突然店の外から店の中を吸い込むような強風が吹いた。しかし、その突風は少女やマスター、店内の物の影響はせいぜい髪がなびくくらいだ。が、ヘンゼルは別だった。その強風に吸い込まれている。ヘンゼルは、飛ばされないように踏ん張る。しかし、だんだん少女から遠のいていく。
「グレーテル!」
 ヘンゼルは少女に腕を伸ばした。少女は腕を伸ばさなかった。
「グレーテル!絶対に、絶対にまた来るから!」
 踏ん張りきれなくなったヘンゼルはふわり、と体が浮き、強風で店の外へと放り出された。ヘンゼルを追い出すと、店の扉はパタン、と勝手に閉じた。ヘンゼルがいなくなった店内には、いつもの静かな店内に戻った。少女はマスターを見る。マスターからはもう怖さがなくなり、少し気まずそうに微笑んでいた。少女は、さっきまで座っていた席に座った。しかし、絵本を読むことはせず、マスターの顔を見る。マスターはそれに気がつき、声をかけた。
「ミルクティー、飲むかい?」
 少女は首を縦に振った。マスターはミルクティーの準備を始める。
「君は、自分のことが知りたいんだね?」
 マスターは振り返らずに少女に訊ねる。
「うん」
 少女は答えた。マスターはミルクティーを淹れる準備をしながら、話しはじめた。 「君の名前はグレーテル。君は元々、『ヘンゼルとグレーテル』という物語の世界の住人だったんだ。いつも君が読んでいる絵本があるだろう?あれは、君がいない『ヘンゼルとグレーテル』という物語なんだよ。今では多くある世界の中でも半分しか君がいる『ヘンゼルとグレーテル』は存在しない。本当は、あの絵本の中にいるべき存在なんだ」
 少女は黙って聞いていた。マスターは続ける。
「本当の『ヘンゼルとグレーテル』のあらすじはこうだ。
 あるところにヘンゼルという少年とグレーテルという少女の兄妹がいた。兄妹の家は貧しかったのでいつもお腹を空かしていた。ある夜、ヘンゼルとグレーテルはベッドの中で自分たちが森に捨てられることを知った。父は最後まで反対していたが、継母に言われ渋々二人を捨てに行くことになった。
 一度目は兄ヘンゼルが残した道しるべで家に帰ってくることができたが、二度目は道しるべにしていたパンを鳥に食べられたため、森をさまようことになった。しばらくすると兄妹は、お菓子で作られた家にたどり着いた。お菓子の家を食べていると、中から一人のおばあさんが出てきた。おばあさんは二人を家の中に入れ、歓迎した。が、そのおばあさんの本当の姿は悪い魔女だった。悪い魔女は二人を食べようとしていた。ヘンゼルは牢屋に、グレーテルは魔女にこき使われた。ある日、魔女はヘンゼルを食べる準備をグレーテルに手伝わせた。魔女はグレーテルにかまどの火加減を確認させるふりをして、かまどに突き飛ばしてやろうと思っていた。しかし、それに感づいたグレーテルは逆に魔女をかまどに突き落とした。魔女は死んで、グレーテルはヘンゼルを牢屋から出し、二人は魔女の持っていた宝を持って家に持って帰って、父と三人で幸せに暮らした。ちなみに継母は二人が魔女のところにいる間に亡くなってしまっているよ」
 バシャ、とカップを温めるために注いだお湯を捨てる音が店内に響く。
「ここまでが、誰もが知っている物語。けれど、どの物語も知られていないだけで続いているものなんだ」
 コポポポ、と紅茶がカップに注がれる。次にマスターはミルクを紅茶に注いだ。ミルクと紅茶が混ざりあっていくカップが、少女の前に出される。
「家で幸せに暮らしていたヘンゼルと君(グレーテル)。しかし、ヘンゼルはあることに気がついた。……君(グレーテル)は魔法を身につけていた。君(グレーテル)はあの悪い魔女と同じ存在になっていた。最初ヘンゼルはそれでも君(グレーテル)を妹として扱った。……けれど、何年も経つと君(グレーテル)の目が赤くなって、視力が弱くなっていった――魔女は目が赤くて悪い――んだ。そのせいか優しかったヘンゼルは君(グレーテル)に厳しく当たるようになった。そして君(グレーテル)にたくさんひどいことを言った。君(グレーテル)は家を飛び出し、あのお菓子の家へ向かった。しかし、たどり着けず森をさまようことになり、疲れ果て、樹の下で眠っていた」
 少女はミルクティーを一口飲んでから、マスターの話をずっと聞いていた。マスターはなにかまた別のものを用意し、少女に背を向けたまま話を続ける。
「そんな君(グレーテル)の前に一人の男が現れた。その男は人間でも、『ヘンゼルとグレーテル』の物語の住人でもない。様々な物語や人間の世界を行き来することができて、人間の悩みの結晶が大好きな存在だ。
 その男は、君(グレーテル)をずっと手に入れたかったので、機会を窺っていた。男は眠った君(グレーテル)を抱き上げ、愛おしい者を手に入れた満足感に心が満たされたまま、ヘンゼルの元へ向かった。……ヘンゼルに、君(グレーテル)と共に生きるのは自分だ、と宣言するために。そして、男はずっと君(グレーテル)が側にいるように、君(グレーテル)の記憶を消し思い出そうとしないようにし、魔女ではなく一人の少女に戻した――だから君の目は赤くないだろう――んだ。」
 コト、と少女の前に皿を出した。皿には花や人の形をしたクッキーのようなものが乗っている。
「これが、君がここに来るまでのことだ。
 これをお食べ。レープクーヘンという、ハチミツやスパイス、オレンジやレモンの皮、それからナッツを使ったケーキの一種だよ。……お菓子の家の壁でもあったものだよ」
 少女はレープクーヘンを食べる。マスターは訊ねた。
「君が望むのならば、記憶を戻すことも、この店から出ることもできる。……どうする?」
 少女はレープクーヘンを飲み込み、ミルクティーを飲んだ。そして真っすぐマスターを見て、答えた。
「まだ、わからない」
 マスターは「そうか」と微笑みを浮かべたまま言った。
「ゆっくり、考えてごらん」
 マスターは、いつものようにカップを磨き始めた。

 あれから少女、いやグレーテルは考えた。
グレーテルはマスターのことが好きだ。マスターの側にいれば様々な人に出会うことができ、楽しい。それにマスターの淹れるミルクティーもお菓子もおいしい。マスターとずっと一緒にいたので、マスターのいない暮らしなど考えたことがなかった。マスターはずっとカウンターの内側にいて、店の外にも出たことはないが、少女にとっては家族、と言っても過言ではなかった。少女にとっては、マスターはいつもいることが当たり前の存在だったのだ。たとえ、人間ではなかったとしても。
 グレーテルは兄ヘンゼルが店に来たときのことを思い出した。マスターはグレーテルにひどいことをたくさん言った、と言っていたが、今のグレーテルの記憶にはないからわからない。それでも、体中ケガをして泥だらけの状態になってもグレーテルを探しに来た、ということは、ヘンゼルはグレーテルに対して言ったことや態度を反省や後悔しているのだろう。けれど、グレーテルには不安があった。また、ヘンゼルにひどいことを言われてしまうのではないか、ということであった。言われた記憶がないとしてもそういう事実があった、ということを考えると、ヘンゼルと共に『ヘンゼルとグレーテル』の世界に帰ることを躊躇われた。けれど、ヘンゼルはグレーテルを愛しているのだろう。そうでなければあんな状態になってまで探しに来ない。ふと、グレーテルはマスターの言ったことを思い出した。
 グレーテルは、絵本を開いた。何度も、何度も読んだ絵本だ。この絵本はずいぶん前にきた客にもらったものだった。そういえば、この絵本を読んでいることを知ったときマスターは一瞬驚いたような顔をしていたことを思い出した。ぱらぱら、とページをめくる。最後のページは、少年がお菓子の家で悪い魔女に食べられてしまうところだ。グレーテルはそのページをずっと、見つめていた。少年の顔には恐怖が浮んでいる。グレーテルはこの話を読むたびに、もしもこの少年に妹が生きていれば、と思っただろう。もし自分がこの物語の少年の妹で、生きていれば助けられるのに、といつも思った。
「……お兄ちゃん」
 グレーテルは、決めた。

 カランカラン、とカウベルが鳴る。少女とマスターは入口を見た。そこにはヘンゼルが立っていた。ヘンゼルはマスターにこの間のようなことをされるのではないか、と警戒している。
「グレーテル……」
 グレーテルはマスターを見た。マスターもグレーテルを見つめる。
「決まったかい?」
 グレーテルは静かに首を縦に振った。マスターは「そう」と口元に笑みを浮かべたまま言った。マスターはグレーテルがどうするかわかっているようだった。
 グレーテルは腰をあげた。静かに、ヘンゼルに歩み寄る。そしてゆっくり、ヘンゼルの手を握った。
「お兄ちゃん。私、いつも私がいない『ヘンゼルとグレーテル』を読んでいたの。いつも最後お兄ちゃんが悪い魔女に食べられてしまって、嫌だった。私はお兄ちゃんに生きていてほしいし、お兄ちゃんと一緒に生きたい」
「グレーテル……」
 ヘンゼルはグレーテルの手を握り返した。グレーテルはヘンゼルの手を握ったままマスターのほうを振り返った。
「マスター」
 マスターは悲しそうに微笑んでいた。その笑顔を見るとグレーテルは胸は痛んだ。
「これが、君が決めたことなんだね」
 そうマスターが訊ねると、グレーテルはうなずいた。
「記憶は、どうする?」
 グレーテルは少し考えたが、首を横に振った。
「前の記憶がなくてもお兄ちゃんといられるから」
「そう」
 マスターとグレーテルはしばらくカウンター越しに見つめ合っていた。その間、互いになにも言わなかった。先に行動したのはグレーテルだった。空いている手を肩の高さまで上げて、横に振った。
「ばいばい、マスター」
「バイバイ、グレーテル」
 マスターも手を振った。
 二人は互いに顔を見つめると、笑顔を浮かべた。ヘンゼルは「行こう」と言ってグレーテルの手を引いた。入口の扉が開く。二人は真っ暗な店の外に、幸せそうに笑いながら去って行った。

 グレーテルがいなくなってマスターだけとなった店内には、ジャズが流れているだけだった。あれから、グレーテルがこの店を去ってからどれくらい経っただろう。悩みを抱える客は来なくなり、ビンに入れていた結晶が棚に飾っていたものも引き出しにしまっていたものも全てが粉々に砕けてしまった。マスターはグレーテルの座っていた席に腰を下ろしている。カウンターテーブルの上に肘をつき、独り言をつぶやいた。
「なかなか幸せだったな。
 愛おしいグレーテルがいて、しかも悩みの結晶に囲まれて。だが俺は他人(ヘンゼル)の大切なもの(妹)を奪った。だから罰を受けなければならない。たとえ命を奪われようが、体を引き裂かれようが文句は言えない」
 マスターは自分の大切なもの全てがなくなった店を見渡す。
 マスターは生まれたときから今まで、様々な物語の世界や人間の世界を行き来してきた。その行き来で魅入られたものが二つある。一つが人間の悩み、もう一つはグレーテルだ。グレーテルを初めて見たのは一度目に捨てられたときだった。月明かりに照らされ、不安そうに兄ヘンゼルと手をつないで歩いているグレーテルに心を奪われた。守りたくなると同時に壊したくなるという矛盾した感情は歪んだ恋心の一部となった。マスターにとってグレーテルは人間の悩みの結晶と同じくらいいやそれ以上にほしい、と思った。だから、マスターはグレーテルを手に入れる機会をずっと待っていたのだ。手に入れてからは、自分だけのグレーテルとして側に置いた。
「……さてもうそろそろ、罰が下る。だが、俺はその厳しい罰以上の幸福と充実を得た」

 そのときカランカラン、とカウベルが、最期の時を告げるように鳴った。