七不思議と三人の冒険 02

幻の5年4組

 源あすかは、時計を見た。午後六時。そろそろ友達の滝田カオルと、皆川レンが日曜日まで泊まりにくるはずだ。二人とは、幼稚園のころからの親友だ。この土日は、おもいきり遊ぶつもりだ。カオルの家は合気道、レンは剣道の道場だ。あすかの家も空手道場で、格闘三人組、と呼ばれている。多くの女子なら嫌がるかもしれないけれど、男子である二人と、同じように扱われているので、あすかは嫌ではない。そのとき、ピンポーン、とチャイムが鳴った。あすかは、部屋をとび出し、玄関に向かった。ドアを開けると、パジャマなど必要なものが入ったかばん、お泊まりセットを持ったカオルと、レンが立っていた。
「よー、あすか。来たぜー」
 カオルは、右手をあげた。夜でもキャップのつばを、後ろにしてかぶっている。これが、カオルのトレードマークだ。あすかより八センチ小さい。そのため、となりにいるレンが、とても大きく見える。二人の身長差は、十センチほどある。
「悪い、遅れた。カオルが自転車の鍵、探していたから」
「またかよー。まあ、入れよ」
 二人とも「おじゃまします」と、家の中に入った。荷物をあすかの部屋に置いて、リビングでゲームをすることになった。晩ごはんの時間が近づくと、あすかの兄、ムロマチとカマクラが帰ってきた。二人の兄は、寮のある高校に通っているので、週末にしか帰ってこない。
 ゲームは中断し、あすかは、お母さんといっしょにハンバーグを作りはじめた。カオルとレンも食器を並べた。食器棚のどこに、コップや皿があるのか、二人ともわかっている。じゅう、と肉や焼ける音とともに、ハンバーグが焼ける。今日はおろしハンバーグだ。レンは上にのせるしそを刻み、カオルは、大根をおろし金でおろしている。指まで削らないように、気をつける。ほかにもグリーンサラダと、豆腐とわかめの味噌汁が完成するころに、着替えなどを終えた二人の兄が降りてきた。ハンバーグは、あっさりしておいしかった。晩ごはんを終えたカオル、レン、あすかは、食器を洗った。それを終えた三人は、あすかの部屋に行った。あすかの部屋には、クラスの女子のように、キャラクター雑貨はない。けれど、学習机の上に、一体だけ黒猫のぬいぐるみが置かれている。二年前のあすかの誕生日に、カオルとレンがくれたものだ。自分のことをオレ、という男勝りなあすかが持っている、唯一のぬいぐるみだ。手のひらにすっぽり、と収まる大きさの、黒猫を見ると、二人はうれしくなるのだ。ずっと、大切にしてくれているのが、わかるからだ。壁には、カマクラからもらったオーロラのポスターが、貼っている。ベッド、学習机、目覚まし時計、洋服だんすに空手の胴着。な部屋だ。ベッドにはカオル、床にレン、学習机のいすに、あすかが座っていた。最初に口を開いたのは、カオルだった。
「なあ。おれたち、柱時計の亡霊を解明しただろう?」
 柱時計の亡霊とは、三人が通っている小学校にある、七不思議のひとつだ。深夜二時に、職員室の前にある柱時計に呼びかけると、時計の中に吸いこまれてしまう、と言われていた。本当に亡霊はいた。たかし坊ちゃん、と呼ばれていた。なにも言わずに別れてしまった、友達のさえこちゃんの気持ちを知りたがっていた。いろいろあり、たかし坊ちゃんは、さえこちゃんと再会し、今では二人で、学校の生徒たちを見守っている。
「ほかの七不思議も本当なのか、確かめてみないか?」
 前回、迷路に放り出され、化け物に追いかけられたのにも関わらず、カオルは言った。懲りていないのか、それすらも楽しかったのか。おそらく、両方だろう。けれど、二人とも反対しなかった。カオルと同じように、はらはらどきどきした、あの日の興奮が忘れられなかったのだ。
「じゃあ、どれにするか決めようぜ」
 アスカは机の引き出しから、ノートと鉛筆をとり出した。まずは、七不思議を挙げることにした。

・柱時計の亡霊  済み
・真っ赤な桜
・飛び回る実験道具
・幻の五年六組
・図書室の女の子
・真夜中に聞こえるピアノ
・踊り場の大鏡

「こんなもんか」
 カオルとレンは、ノートをのぞきこんだ。
「なあ、幻の五年六組ってたしか、存在しないはずの教室がある、ってやつだよな」
「ああ」
 幻の五年六組。昔、生徒が多かったときの名残りで、学校には五つの教室が並んでいる。今ではそれほど生徒は多くないので、どの学年も四組までしかない。五組だった教室は、物置になっている。しかし、だれもいない夜になると、五年五組だった教室のとなりに、もうひとつ教室が現れる。それが五年六組で、学校中に子どもの幽霊が集まり、人を呪うための勉強をしている、と言われている。
「これ、気になるな」
「お、レンも?」
「オレもちょっと、気になる。だって、昼間はない教室が、現れるんだぜ?」
「じゃあ、次の七不思議は、幻の五年六組な」
 三人は、決行日など詳しいことを、決めはじめた。しかし、彼らは気づいていなかった。ドアのすき間から、ムロマチとカマクラがのぞいていたのだ。ムロマチは、小声で弟のカマクラに、話しかけた。
「あすかも、まだまだだな。内緒で、ことを進めるなら、ドアはちゃんと、閉めなくちゃな」
「どうする、兄貴。とめるか?」
 カマクラの問いに「まっさかあ」と、ムロマチは、どこか楽しげに答えた。
「おれもお前も、同じことしたじゃん」
「でも、あすかは女の子だ」
 あすかが聞けば、怒るだろうな、とムロマチは思った。カマクラは、四つ離れている妹が、心配なのだ。しかし、あすかはそれほど弱くない。ムロマチたちのように、大会には出ていないが、そのへんにいる大人より、ずっと強い。
「だいじょうぶだって。お前は、心配しすぎなんだよ。さーて、じゃあまた抜け出す手助けでも、してやりますか」
 兄弟でそんなやりとりがされているとも知らずに、話は進んでいった。

 あのお泊まり会から翌週の金曜日である、今日。幻の五年六組の謎を解き明かす日がやってきた。仮眠も十分した。あすかは、あらかじめ用意していた、雨の日用の少し古い靴を持って、自分の部屋から抜け出そうとしていた。そのとき、コンコン、とドアがノックされた。慌てて、靴などを隠す。
「どうぞ」
 入ってきたのは、ムロマチとカマクラだった。
「どうしたんだよ。ムロ兄、クラ兄」
「お前の部屋から抜け出すのは、やめとけって。母さんたちに、見つかるぞ」
 どき、とした。だれにも言っていないのに、どうしてばれたのだろうか。そう思っているのが顔に出ていたのか、カマクラが「ドアはちゃんと閉めたほうがいい」と、アドバイスをした。結局、前と同じようにムロマチの部屋から、抜け出すことになった。窓から、縄をつたって降りようとすると、兄二人に呼び止められた。ムロマチはチョコレートを、カマクラには白い粉が入っている、ビニール袋を差し出された。
「ほら、これ。持って行きな」
「なにこれ?」
「塩だ。塩には幽霊や、悪いものを追いはらう力があるらしい」
 あすかは「ふーん」と、信じられない、といった顔で塩をながめた。
 ちなみに、塩には悪いものを吸収し、近づきにくくするという話がある。盛り塩がいい例だ。
「あすか、無事に帰ってこいよ」
「大げさだなあ、クラ兄は」
 三人は、ムロマチの部屋に移動し、窓から外に出た。その後ろ姿をムロマチはにこやかに、カマクラは心配そうに、背中を見守っていた。

 待ち合わせ場所である、校門前には、すでにカオルとレンが来ていた。校門をよじ登り、運動場に侵入する。カオルは事務員室前の窓を左右に揺らした。かちゃん、と鍵が開く音がした。ここの鍵は壊れかけていて、このようにすれば開くのだ。念のため、だれもいないことを確認し、校舎内に忍びこんだ。
「けど、カオル。五年の教室って北校舎だろう?」
 目的地の五年生の教室は北校舎の四階で、ここは南校舎の一階だ。南校舎と北校舎は、それぞれの階を、東と西の二か所を渡り廊下でつないでいる。渡り廊下のドアにも、鍵がかかっている。レンに言われて、カオルはようやく思い出した。
「だいじょうぶだ。北校舎にも、鍵が壊れているところが、あるぜ」
 アスカの一言で、一度外に出て、北校舎一階に向かった。女子トイレの、小さな窓がからから、と軽い音を立て、開いた。
「ここ、鍵壊れてから直ってないんだ。女子はみんな知ってるけどな」
「なるほど、そりゃおれたち男子は、知らないわけだ」
「カオルは小さいから、余裕で入るだろ?」
「うっさい!これからでかくなるんだよ!」
 あすかは、にやにや、と笑いながら、カオルに言った。小柄なことを気にしているカオルは、あすかをにらんだ。まずは、あすかが忍びこむことになった。カオルとレンは、女子トイレに入ることに、抵抗があった。しかし北校舎に入る場所が、ここにしかないのなら、がまんするしかない。男子二人は、足早に女子トイレを出た。北校舎は、特別教室が多い。理科室や音楽室、図工室。同じ暗闇なのに、北校舎のほうが、不気味に思える。知らない間に、怪物の口の中に入ってしまったのでは、と錯覚してしまう。レンは、持ってきていたペンライトをつけた。明りがつくと、少し安心した。何度か真夜中の学校に、忍びこんだが、この暗闇と独特の空気には、慣れることができない。三人は、身を寄せ合って、歩を進めた。かつん、かつん、と階段を上る音が響く。五年生の教室の階に着いた。生徒でにぎやかな教室の面影は、ない。
「よし、確認しながら行くぞ」
 五年一組、二組、三組、四組。そして、元五組の物置。それぞれの教室の前を通りすぎた。本来なら、この五組のとなりは、階段だ。しかしあったのは、階段ではなく、見覚えのない教室だった。三人は、後ろをふり返って、確認した。
「一、二、三、四、五」
「六……」
 六つ目の教室。まるで、昔からそこにあったかのようだ。幻の五年六組は、本当にあったのだ。
「お、おい。あったぞ」
「どうする?」
「ちょっとのぞいてみようぜ」
 三人はひそひそ、と相談した。そして、そうっ、と足音を立てないように気をつけながら、窓に近づいた。こっそり、と窓から教室をのぞいた。すると、そこには一年生から六年生まで、学年差のある生徒が席に座っている。机の上には、ずいぶんと古そうな教科書がある。しかし、全員分はないのか、二、三人で使っている。黒板の前には、白いブラウスに、ベージュのスカートをはいている、先生らしき女性が立っている。みんな、体が透けていて、足がない。幽霊だ。
『せんせー、ここの解き方がわかりません』
 窓側の席の、前から三番目の男子生徒が手を挙げた。先生は、すう、と音もなく、男子生徒の席に向かった。カオルは、もっとよく、様子を見ようとした。しかし、そのせいで窓にこつん、と腕を当ててしまった。小さな音でも、水の波紋のように大きく広がった。教室の幽霊が一斉に、カオルたちのほうを向いた。突き刺すような視線が、痛い。
『せんせい、にんげんだ!』
『人間だ!』
 カオルたちは、両手を挙げ、敵意がないことを示した。先生幽霊が、まるでそよ風に押されているように、三人に近づいた。
『あなたたちはだれ?なぜ、この教室にいるの?』
 厳しく問い詰めるのではなく、小さな子に尋ねるような、言い方だった。こわばっていた体が、少しほぐれた。
「えっと、オレたち、学校の七不思議が本当か、調べていて……」
 先生幽霊は、三人の目的がわかったのか、微笑みながら『どうぞ』と、教室に招き入れた。幽霊生徒たちの視線を、肌で感じる。先生幽霊は、三人に説明した。
『ここにいる子たちは、学校に通いたかったのに、通うことができなかった子たちなの。病気や事故で亡くなった子もいれば、戦争に巻き込まれた子もいるの』
 丸坊主で、今では見ないような、古そうな服を着た男の子。ほっそりとした体の女の子。
『そして、わたしはみわ子。教師になったばかりで、交通事故にあって、死んでしまったの。この教室は、そんな子どもたちと、いっしょに授業をしているの』
「ど、どんな授業?」
 噂ではたしか、人を呪うための勉強をしている、らしい。少しどきどきしながら、カオルは尋ねた。
『国語や算数、社会よ。教科書は、この学校に残っていたものなの。だから、あまり数はないの』
 だから、一人一冊ないのか。三人とも、納得した。そして、授業の内容が人の呪い方ではなくて、ほっ、とした。そのとき、みわ子の表情がこわばった。
『みんな、隠れて!』
 みわ子がそう言うと、生徒全員が、机の下にもぐった。ぽかん、としている三人に、みわ子は、机の下に隠れるように言った。状況がわからないまま、隠れた。すると、すぐにかちゃん、かちゃん、となにかぶつかる音が聞こえた。足音のように、どんどん近づいてくる。レンはちらり、ととなりの女子幽霊を見た。少し、震えているような気がした。
『ひゃははは!』
 突然、大きな笑い声がした。全員、小さく肩が、はねた。
『はははは!ひゃははは!』
 それは、まるで気が狂ったかのような、ぞっ、とする笑い声。笑い声は教室の前を通り過ぎ、どこかに去って行った。みわ子も、生徒の幽霊も、ほっ、としていた。
「あの、さっきのは?」
 レンは、みわ子に尋ねた。みわ子は、立ち上がりながら、説明した。
『さっきのは、理科室の幽霊なの。彼の周りには、実験道具が飛び回っているの』
 レンはそれが、七不思議の、飛び回る実験道具だと、すぐにわかった。
 飛び回る実験道具。昔、理科室で自殺した先生の霊が、夜な夜な理科室の実験道具を、宙に浮かせたり、壁にぶつけたりしているそうだ。
『あの、理科室の幽霊は、前に子どもたちが、襲われかけたことがあるの。毎日校内を歩きまわっているみたい。だから、みんな怖がっちゃって』
 みわ子は、困り果てているようだ。レンは、二人と顔を合わせた。三人とも、同じ思いだった。
「じゃあ、おれたちがあの幽霊、倒してきてやるよ」
『えっ。でも、危ないわ』
「だいじょうぶだよ。オレたちの家、みんな道場なんだ。だから、そこらへんの大人より、強いぜ」
「みわ子先生、理科室の幽霊の見た目って、わかりますか?」
 レンが尋ねると、一人の男子生徒の幽霊が『おれ、知っているよ』と手を挙げた。三人とよく似た年頃だ。頭と、腕に包帯を巻いている。男子生徒は黒板に、理科室の幽霊の似顔絵を、描き始めた。髪はぼさぼさで、ぎょろ目、頬はこけている。
『こんなのだった。おれ、襲われかけたこと、あるんだ』
「そうなんだ。ありがとう」
 三人は、五年六組をあとにした。理科室は、三階の、一番奥にある。三階は四年生の教室と、多目的室がある。階段を降りながら、カオルは小声で言った。小さな声なのに、大きく響いているような気がする。
「でも、どうやって倒す?」
「幽霊ってなにか、弱いものあるか?」
 あすかは、カマクラが持たせてくれた、塩を思い出した。幽霊や悪いものに効く、と言っていたが、本当だろうか。あすかは、カオルとレンに、塩のことを話した。カオルは「嘘だあ」と疑ったが、レンはちがった。
「パワーストーンを浄化するときに、塩を使う方法があるって、本で読んだことがある。塩に埋めておくといい、とかって。
 だから、その塩も、もしかしたら理科室の幽霊に、効くかもしれない」
 あすかは、カマクラに感謝した。三人は、強い武器を手に入れた気分になった。階段の途中で座り込み、作戦会議を始めた。まず、理科室に忍びこみ、隠れる。そして、隙をみて塩をまく。もしも、理科室の幽霊が反撃してきたときは、あすかとレンで応戦する。カオルは、ひたすら理科室の幽霊に、塩をまくことになった。理由は、カオルが小柄で、素早く、理科室の幽霊の攻撃が当たりにくいだろう、と考えられたからだ。あすかは、わざと小柄であることを強調して、カオルは怒った。いつものように、レンが仲裁に入った。途中で、レンの武器として、四年生の教室からほうきを一本、借りた。少し長いけれど、ぜいたくは言っていられない。三人は改めて、理科室に向かった。足音を忍ばせて、近づく。窓から理科室の中をのぞくと、だれもいなかった。幽霊は、まだ帰っていないようだ。鍵は、開いていた。そろり、と後ろの入り口から、中に入った。古いガイコツや、人体模型が、不気味にたたずんでいる。今にも笑い声を上げて、三人を驚かすのではないか、とどきどきしている。できるだけ、人体模型とガイコツから離れた位置の机に、隠れることにした。机は、六人掛けの机が、七つある。窓側の、前から数えて二つ目の机に隠れた。それぞれ塩を持ち、息をひそめた。レンは、武器のほうきを、ぎゅっ、とにぎりしめた。どれくらい経っただろうか。やがて、あの不気味な笑い声が、聞こえてきた。こっそり、と見てみると、ドアをすり抜けて入ってくるところだった。
『はははは!……ははは』
 まるで一息つくように、笑い声が止んだ。気が抜けている、今がチャンスだ。三人は机の下から飛び出した。理科室の幽霊は、窪んだ目が飛び出そうなくらい、驚いていた。三人は、塩をおもいきり、まいた。バチン、バチン、と静電気のような音がした。
『や、やめろ!くそう!』
 理科室の幽霊が、右手を挙げると、窓辺に置かれていたビーカーや、試験管が青白い光を放ちながら、浮かんだ。そして、それらはカオルたちに向かって、飛んできた。作戦どおり、レンとあすかが、カオルを守った。レンが構えると、ほうきも立派な竹刀に見える。レンは、飛んでくる実験道具を、はたき落した。あすかは、構えた。勢いよく向かってきたビーカーを、蹴り落とした。ビーカーが、パリン、と音を立てて、割れた。
「カオル、やれ!」
「おうっ。とりゃあ!」
 カオルは、レンとあすかの後ろに隠れながら、理科室の幽霊に塩をまいた。理科室の幽霊は『やめろ、やめろ!』と言いながら、実験道具を飛ばしていたが、力が弱まって次第に実験道具の嵐は、静まっていった。カオルは、攻撃の手をやめた。理科室の幽霊は、床にへたりこんでいた。呼吸が荒い。
「まだやるか?」
『ひっ!や、やめてくれ!降参だっ』
 カオルが塩をまこう、と構えると、理科室の幽霊は、慌てて両手を振った。改めて見ると、理科室の幽霊は思っていたよりも、若かった。三十代半ばだろうか。男子生徒が描いた似顔絵のように、髪はぼさぼさで、ぎょろり、とした目と、こけた頬が怖い印象を与えている。けれど、その目には、どこか子どもたちを見守ってきたやさしい光が、宿っているようにも見えた。
「なあ、なんで五年六組の生徒を、襲ったんだよ?」
 あすかがそう尋ねると、理科室の幽霊は、ばつが悪そうに、目をそらした。あすかが、塩をまこうとすると、慌てて話しはじめた。
『わかったよ、話すよ。
 ぼくは、元々ここの教師だったんだ。けれど、ぼくのクラスは、荒れていてね。窓ガラスは毎日割れたし、授業中に出歩く生徒も大勢いた。チャイムが鳴っても、おしゃべりはなくならないし、紙飛行機が飛んで、まともに授業ができたことなんて、なかったなあ。みんな好き放題に暴れて、手がつけられなかった』
 理科室の幽霊は淡々、と語った。授業中は静かなのが、当たり前だと思っていた三人は、驚きを隠せなかった。理科室の幽霊は、言葉を続けた。
『そんな中クラスで、教師をいじめることが流行したんだ。きっと、生徒たちからすれば、ゲーム感覚だったんだろう。日に日に、生徒たちからのいじめは、ひどくなっていった。中心になっていた、男子生徒がいたんだ』
 理科室の幽霊は、その男子生徒にされたことを、思い出した。授業中に、上げる大声。黒板と、自分に投げられる水風船。水には、赤いインクが混ざっていた。一生懸命作った学級通信も、目の前で生徒全員に踏みつけられ、破かれた。浴びせられる言葉は、死ね、や一斉に帰れというコール、教師を辞めろ、など心を切りさくものばかりで。血を流していた心も、次第に血も涙も流れなくなった。そんな心は、少し寒い日に張った、薄い氷のように、簡単に割れた。
『ぼくも、もっと強くなければ、いけなかったんだ。……でも、ぼくは、それに耐えることが、できなかった』
「もしかして、それで自殺したのか?」
 理科室の幽霊は静かに、こくん、とうなずいた。小学生だったころ、みんなで行なった実験が楽しくて、好きになった理科と、理科室。そこで、死のうと思ったのだ。
『だから、五年六組の先生がうらやましかった。ぼくのクラスに、あんないい子たちは、いなかった。五年六組の生徒たちが、うらやましかった。あんな風に楽しそうに、授業をうけることができて。ぼくには、楽しい授業なんて、できなかった。……そう思うと、知らない間に、子どもたちを襲おうとしていたんだ。あの子たちには、悪いことをしてしまった』
 周りの空気が、どんより、と重くなった。理科室の幽霊も、悲しい過去を背負っていたのだ。ふと、カオルはあることを、思いついた。
「なあ、それって楽しく授業をしてみたかった、ってことだよな?」
『ああ』
「じゃあさ、五年六組のみんなといっしょに、授業したらいいじゃん」
 全員の視線が、カオルに集まった。なにかおかしいことを、言っただろうか。カオルは、そう思った。レンとあすかの表情が、明るくなった。
「カオル、お前いいこと言うなっ」
「そうと決まれば、五年六組に行くか」
 急な展開に、理科室の幽霊は、混乱していた。あすかは、理科室の幽霊を起き上がらせようと、腕をつかんだ。しかし、腕に触れることはできず、するり、と通り抜けてしまった。あすかは、なんとも言えない気持ちで、行き場をなくした手を、見つめた。理科室の幽霊は、少し悲しそうに笑みを浮かべた。
「そっか。幽霊って本当に、触れることができないんだな」
 あすかが、ぽつり、とつぶやいた。カオルとレンも、少し悲しくなった。けれど、理科室の幽霊は、ちがった。多くの人に怖がられる幽霊であるのに、カオルたちは、話を聞いてくれた。そして、もう一度教師として授業をする、チャンスをくれようとしている。それが、とてもうれしかった。
『でも、五年六組の子たちを襲ったことは、事実だ。受け入れてもらえるだろうか』
 理科室の幽霊は、不安そうにつぶやいた。カオルは「だいじょうぶだって!」と、理科室の幽霊をはげました。一行は、五年六組へと向かった。
 五年六組は、休み時間なのか、にぎやかだった。理科室の幽霊は、教室の外で待つことにした。幽霊生徒たちが、怖がるかもしれないからだ。カオルとレン、あすかが戻ってくると、みわ子や、幽霊生徒たちはほっ、としたようだった。心配してくれていたのだ。三人で、みんなにすべて報告した。
『そうだったの。知らなかったわ』
「ああ。だから、理科室の幽霊もいっしょに授業させてほしいんだ」
 みわ子先生は一瞬考え、幽霊生徒たちのほうを見た。
『ねえ、みんなはどう思う?いっしょに、授業をしてもいいかしら?』
 幽霊生徒たちは、互いに顔を見合わせた。ざわざわ、と近いもの同士で話し合っている。すると、一人の幽霊生徒が立ち上がった。理科室の幽霊に襲われかけたという、包帯を巻いた男子幽霊だった。
『おれはいいと思う。みわ子先生のほかにも、先生がいれば、授業も楽しいし』
 次々と『わたしも』『ぼくも』と、賛成する幽霊が増え、最後にはみんなが、理科室の幽霊を歓迎した。理科室の幽霊はカオルに呼ばれ、教室の中に入った。理科室の幽霊は、深く頭を下げて、襲ったことを謝った。みわ子先生は、理科室の幽霊と、向き合った。
『ようこそ、五年六組へ。先生のお名前は、なんていうんですか?』
『えっと、荻野です』
『それでは、荻野先生。改めまして、よろしくおねがいします』
 みわ子先生がおじぎをすると、幽霊生徒たちも起立して、おじぎした。
『よろしくおねがいします!』
 理科室の幽霊、いや荻野先生は目がしらが熱くなった。こんな風に、再び教壇に立つ日がくるなど、夢にも思わなかったのだ。荻野先生は『よろしくおねがいします』と、深く頭を下げた。荻野はカオルたちにも、深くおじぎをした。
『きみたちのおがけで、また教師として、生徒を受け持つことができた。本当に、ありがとう』
「おれたち、大したことしてないよ。なあ?」
「そうだな」
 照れくさいけれど、荻野先生が五年六組の一員になれたことは、素直にうれしかった。カオルとあすかは、えへへ、と笑った。そんな中、レンは気になっていたことを、みわ子先生に尋ねた。
「あの、なんでわざわざ、夜に、五年六組で授業を?ほかにも、教室はあるのに」
『だって、昼間はほかの子たちが、わたしたち幽霊を見て、怖がるでしょう?もちろん、昼に授業やクラブ活動ができれば、みんなも楽しいと思うけれどね。それでも、わたしたちは、授業がしたかった。だから、自分たちの教室を作ろう、と思ったの。だから、今とても幸せよ』
 うれしそうに、みわ子先生は語った。
「どうやって、作ったんだ?」
 あすがが尋ねると、みわ子先生は思い出しながら、答えてくれた。
『たしか、教室を作る方法を、図書室で調べてみようってことになったの。そのとき、女の子は一冊の本を、差し出してくれたの。それに載っていたわ』
 そのとき、窓から朝日が差しこんだ。
『あら、もう朝なの。それじゃあ、今日はここまで』
 みわ子先生がそう告げると、『起立』と号令がかけられ、五年六組の授業は終わった。まるで、真夏のアスファルトから出る熱気のように、教室内がゆらめいた。ゆらめきが終わると、三人は廊下に立っていた。ちゅんちゅん、と鳥のさえずりが聞こえる。カオルは、ぽつり、とつぶやいた。
「五年六組、あったな」
 あすかとレンは、うなずいた。そして、重要なことに、あすかは気がついた。
「あ!早く帰らないと、抜け出したのバレちゃうぜ!」
 暗いうちなら、まだこっそり、家に帰ることもできるが、人が起きてくる朝では、家族だけでなく、近所の人にも見つかる可能性が高い。近所の人から、抜け出したことがバレることも、考えられる。特に家が道場である三人の家族は、朝が早い。
「本当だ!」
 三人は、猛ダッシュで、家に帰った。レンも二人と同じく、焦っていた。けれど、みわ子先生の『ほかの子たちが、わたしたち幽霊を見て、怖がるでしょう?』という一言が、しこりのように、残っていた。

 あのあと、三人は丸一日眠った。そして、次の日である、日曜日。レンの提案で、カオルの部屋に集まった。
「どうしたんだよ、レン」
 レンは、心のしこりを吐き出した。
「みわ子先生が、みんなが驚くから、昼間に授業しないって言ったこと、覚えているか?」
 カオルとあすかは、うなずいた。
「おれ、五年六組のみんなが、昼間に授業ができるように、したいんだ。おれたちと、同じように。だって、幽霊でも、同じ学校の生徒じゃないか」
 レンは、よく仲裁に入り、一歩退いたところから、ものごとを見る。カオルとあすかが『動』なら、レンは『静』だ。なので、このように、自分の思いを全面に出すことは、数えるほどしかない。そんなレンが言うのだから、よほど強い意志なのだろう。カオルとあすかは、にっ、と笑った。それに、幽霊と授業ができるなんて、おもしろそうだ、と思ったのだ。
「いいぜ、のった!」
「学校のことだから、校長先生に言えばいいのか?でも、いきなりは、会ってくれないよなあ」
「それなら、高瀬先生に相談してみるか」
 高瀬彩先生は、三人の担任の先生だ。柱時計の亡霊を解明したときに、協力してくれたのだ、高瀬先生の協力がなければ、たかし坊ちゃんとさえこちゃんは、再会できなかっただろう。ちなみに先生は、さえこちゃんの、ひ孫だ。
「さすが、レン。じゃあ、月曜日に高瀬先生に、相談してみようぜ」
 カオルは言った。レンとあすかは、力強くうなずいた。
 そして、月曜日の放課後。三人は、職員室を訪れた。高瀬先生は、運動場側の窓の席にいた。
「あら、どうしたの?三人そろって」
 カオルたちは、幻の五年六組のことを話した。前と同じように、真夜中に忍びこんだことは、内緒にして。高瀬先生は、腕を組んで、考えこんだ。それもそうだろう。幽霊のために、教室を用意してほしいなど、頼まれるなど、だれが考えるだろうか。
「みわ子先生も荻野先生も、生徒のみんなも悪い幽霊じゃないんだ」
 カオルがそう言うと、高瀬先生のとなりで、学級通信を作っていた、先生がはじかれたように、こちらを見た。たしか、五年一組の市本俊之先生だ。
「今、荻野先生って言ったか?」
 カオルは、うなずいた。ほかの先生が、話に入ってくるとは思っていなかったので、少し驚いた。
「それって、眼鏡をかけた先生だったか?」
 三人は、うなずいた。市本先生は、「ああ……」と、悲しそうに、顔をゆがませた。
「あの、どうしたんですか?市本先生」
 高瀬先生は、心配そうに市本先生に、声をかけた。市本先生は、うつむいたまま、ぽつり、ぽつり、と話しはじめた。
「荻野先生をいじめていた、中心の生徒っていうのは、ぼくのことなんだ。当時は、ただのゲームの感覚で、大人は強いから、傷つかないって思っていた。でもある日、荻野先生が理科室で、自殺したって聞いた。ぼくは、ようやく、自分がしたことの大きさに、気づいた。何度もお墓の前で謝った。教師になったのも、荻野先生ができなかったことを、少しでもしたいと、思ったからだ。もう一度、荻野先生が、教師として歩むなら、その力になりたい」
 市本先生の目は、本気だった。
「校長先生に相談してみよう。ぼくが、ついて行こう」
「市本先生、ありがとうございますっ」
 三人は、「失礼しましたー」と、うれしそうに、職員室をあとにした。

 次の日。校長先生と話す機会が、設けられた。普段あまり接することのない、校長先生と話す。三人は緊張した。いつも横切るだけの校長室に、市本先生といっしょに、向かった。市本先生が、こんこん、とノックをした。中から「どうぞ」と、招き入れる声がした。中に入ると、校長先生が、黒いふかふかのいすに座って、仕事をしていた。カオルたちを確認すると、校長は歓迎して、来客用のソファーを、勧めた。
「やあ、いらっしゃい。どうぞ」
 カオル、レン、あすかは、ソファーに座った。その後ろに、市本先生が、立っている。レンが、五年六組のこと、昼に授業ができるように教室を使わせてほしいことを、話した。校長先生は、三人の話を、真剣に聞いてくれた。
「おねがいします、校長先生!」
「おねがいします!」
「校長先生、ぼくからもおねがいします」
 レンたちは、頭を下げた。校長先生は「うーん」とうなって、腕を組み、考えた。
「たしかに校長先生は、学校で一番えらいけれど、一人で決めてはいけないんだ。幽霊が怖くて苦手、という子もいる。保護者の人たちにも、反対する人が多くいると思うよ」
「それでも、なにもしないなんて、できません」
 レンは真剣な面持ちで、校長先生を見つめた。本気であることがわかった校長先生は、「それじゃあ、こうしよう」と条件を出した。
「この学校の生徒の半分にあたる人数の、署名を集めることができれば、保護者にかけあってみよう。期間は一カ月で、きみたちの力だけでね」
 全校生徒の人数は、およそ七百人。半分ということは、三百五十人ほどの署名を集める必要がある。けれど、やるしかない。校長先生は、レンたちの本気を試しているのだ。
「わかりました。一カ月以内に、署名を集めてみせます」
 五人は、校長室をあとにした。高瀬先生は、校長室に残った。
「すばらしい生徒たちだ。わたしも、うれしいですね」
 校長先生は、やさしい微笑みを浮かべながら、つぶやいた。

 まずは、クラスメイトから署名を集めることにした。事情を話すと、おもしろそうだから、と署名してくれる子もいれば、幽霊が怖い、と署名をしぶる子もいた。そんな子には、彼らが怖い幽霊ではないことを、根気強く説明した。それで安心して、署名してくれる子もいた。けれど、どうしても幽霊が怖い、と署名してくれない子もいた。そういう子に、無理矢理署名を迫ることは、しなかった。そんなことをしても、五年六組のみんなは、喜ばないからだ。ほかのクラスの子にも、署名をしてもらった。毎日、何度も、いろんな学年の子に、署名してくれるように頼んだ。一生懸命、署名を集めていると、手伝ってくれる子も出てきた。クラスメイトから、別のクラスや、学年の子たちに、署名運動は輪のようにつながり、広がった。呪いの授業をしている、という誤解はとけ、多くの生徒が五年六組を、ひとつのクラスとして認めるようになった。一カ月で、署名は約三分の二も集まった。
 約束の一ヶ月後、カオル、レン、あすか、市本先生は、校長室を訪れた。集まった署名は、レンが運んだ。校長先生に、四百六十二人分の署名が、渡された。校長先生は、予想していたよりも、多くの署名を見て驚いた。そして、大切そうに受けとった。
「わかりました。今度、保護者の方たちに、話してみましょう」
 全員の表情が、ぱあ、と明るくなった。
「よろしくおねがいします!」
 市本先生も、保護者会で最善を尽くすことを、約束してくれた。あとは、待つだけだ。
 それから、二週間後。カオル、レン、あすかの三人は、校長室に呼び出された。保護者会の話し合いの、結果が出たらしい。どきどきする。
「さて、保護者会の話し合いの結果だけれど」
 ごくり、とつばを飲む。校長先生は、にこり、と微笑んだ。
「五年六組の教室が決まったよ。北校舎の一階の物置に使っていた、教室だよ」
「……ということは」
「五年六組のみんなは、昼間に授業をしても、いいですよ」
 カオルたちは、手をとりあって喜んだ。そのとき、「ただし」と校長先生が。言葉を続けた。
「ほかの生徒を驚かせないこと。幽霊が怖い、という子もいるからね。それから、放課後、クラブ活動もしていいですよ」
「ありがとうございます!」
 三人は、頭を下げた。
「市本先生も、知っていたんなら、教えてくれたらよかったのに」
「ごめんごめん。驚かせたかったんだ」
 カオルがそう言うと、市本先生は笑いながら謝った。校長室を去った四人は、放課後に物置を片付けることにした。
 そして、放課後。市本先生が、鍵を持って物置にやってきた。カチャン、と音がして、鍵が開いた。入ってみると、ほこりだらけだった。机やいす、使わなくなった教材や、古い大きな地図。それらは、月日の流れを感じさせた。四人はさっそく、片付けを始めた。ものを動かすとほこりが舞い、全員せきこんだ。置かれているすべてのものを、廊下に出した。机といすの壁ができた。埋もれていた地球儀は、色あせてぼろぼろだった。先生がいるとはいえ、なかなか大変だ。気がつくと、空がオレンジ色に染まりはじめていた。すべてのものを廊下に出し、掃除をする。あすかとカオルは床をはき、レンと市本先生は窓をふいた。空が、オレンジと紫のグラデーションを描いたころ、掃除も終わった。生徒たちは帰ったのか、静かだ。
「今日はこのくらいにして、明日続きをやろうか」
 市本先生がそう言うと、三人は首を横にふった。少しでも早く、五年六組のみんなに、喜んでもらいたいのだ。市本先生は「じゃあ、もう少しだけな」と言って、続けさせてくれた。掃除を終えると、廊下に出した机を拭いて、教室に並べた。新学年にあがったばかりのような、なにもないけれど、きれいな教室になった。
「よし、できた!」
 全員の顔は、ほこりで汚れていた。さっそく、五年六組のみんなを呼ぶことにした。四階に移動した。五年六組の教室は、まだ現れていないので、廊下で大声を上げ、呼んでみた。
「おおーい、みわ子せんせー!荻野せんせー!今、ちょっといいー?」
 カオルの叫び声は、廊下中にこだました。あすかとレンは、耳を押さえていた。すると、なにもない廊下から、みわ子先生と荻野先生が現れた。荻野先生の頭は、ぼさぼさではなくなっていた。
『どうしたの?急に』
「あのさ、オレたち学校で五年六組のみんなが、昼に授業できるように、署名集めたんだ」
『ええっ』
 みわ子先生と、荻野先生は驚きの声を上げた。
「それで、ここの一階の物置だった教室を使っていいって、ことになったんだ。ほかの生徒を驚かせないことが、条件で」
「放課後、クラブ活動もしていいって」
 口元で両手をおおっている、みわ子先生の目にはうっすら、と涙が浮かんでいる。
『みんな、ありがとう』
 念願の、昼間の授業ができる。みわ子先生は、幽霊生徒たちに知らせに行った。荻野先生も、みわ子先生に続こうとした。けれど、市本先生が、呼び止めた。
「荻野先生!」
 荻野先生は、目をぱちくり、とさせた。なぜ呼び止められたのか、わかっていないようだ。
「あの、ぼくのことわかりますか?」
 荻野先生は、市本先生をじっ、と見た。記憶の引き出しの中を、探した。そして、自分をいじめていた、中心となっていた生徒の顔と重なった。
『もしかして、市本くん?』
「先生……」
 市本先生は、荻野先生にゆっくり近づいた。そして、荻野先生の足元で土下座をした。
「先生、すみません!謝ってどうにかなることではないけれど、本当に、本当に!」
 市本先生は、涙を流しながら謝った。
「ま、まさか先生が死んでしまうなんて、思っていなくて。そのあと、ずっと、とんでもないことをしてしまったんだって……」
 荻野先生は、かがんだ。市本先生の頭をなでようとしたが、するり、と突き抜けてしまった。荻野先生は、自分が幽霊であることを思い出し、切なそうな表情を浮かべた。かつての教え子に、触れることもできない。今は、それがとても悲しかった。
『市本くんは、じゅうぶん苦しんだじゃないか』
「先生……。でも、ぼくは許されちゃ、いけないんです。だから、先生、ぼくを許してはいけないんです……」
 荻野先生の心には、まだ市本先生たちにいじめられた傷が、残っている。けれど、今も罪に苦しんでいる市本先生を、かつて生徒だった彼を、呪ってしまいたいくらい憎むことなど、できなかった。
『市本くん。もしもきみが、ぼくをいじめたことを覚えていない、もしくは、なかったことにしていたら、恨んでいただろう。悪い霊になって、いろんな人を傷つけたかもしれない。けれど、きみはこうやって、悔いてくれている。だから、きみを許すことができるんだと思う』
「荻野先生……」
 市本先生は、顔を上げた。荻野先生はにこり、と微笑んだ。市本先生は、荻野先生の笑顔を初めて見たことに、気づいた。そのとき、どこかからか、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきた。その場にいた全員が、声のほうを向くと、なにもないところから突然、幽霊生徒たちがうれしそうに、下に向かっていた。
『教室だ!新しい教室だ!』
『クラブ活動だって!』
 はしゃいでいる五年六組のみんなを見て、市本先生もカオルたちも、うれしくなった。
 こうして、五年六組は新しい教室と授業を、荻野先生は、教え子と和解することができた。人を許すことは、とても難しいことなのかもしれない。それでも、自分をいじめた市本先生を許した荻野先生が、とても立派な先生に見えた。

 カオルたちが署名を集めて以来、七不思議は、少し変わった。まず幻の五年六組は、幻ではなくなった。五年六組の教室、と呼ばれるようになり、毎日楽しく授業をしている、という風になった。中には、五年六組の幽霊生徒たちと、遊ぶ子も出てきた。みんなにとって、幽霊が特別ではなくなったのだ。
 それから、もうひとつ。飛び回る実験道具も、変わった。理科室で実験道具が飛び回ることはなくなった。そのかわり、放課後になると、わからない問題を教えてくれる幽霊先生がいる、と噂になっている。放課後の荻野先生、と呼ばれているようだ。放課後に理科室で「荻野先生、わからないことを教えてください」と言うと、荻野先生が宿題を教えてくれたり、相談にのってくれるらしい。カオルは、荻野先生のところに行ってみようか、と少し思った。
 新たな七不思議が学校中に広まり、少し落ち着いてきた。もうすぐ夏休みだ。海に祭り、花火。楽しいことがたくさんある。そんな、どこか浮ついた空気の休み時間。レンが口を開いた。
「おれ、前にみわ子先生が言っていたことを考えていたんだ。覚えているか?五年六組の教室を作ったときの話」
 カオルもあすかも、うなずいた。
「たしか、図書室にいる女の子に、一冊の本を渡されたとか」
「ああ。それで、気になっていたんだ。みわ子先生たちが動き回っていたのは、夜に間違いない。そんな真夜中に、女子がいると思うか?」
 あすかは、はっ、とした。カオルも少し考えて、レンが言おうとしていることが、わかった。
「もしかして、七不思議の……」
 カオルの言葉に、レンはうなずいて、続きを言った。
「図書室の女の子、だ」
 図書室の女の子。図書室にいる、恥ずかしがりの女の子幽霊のことだ。めったに人の前に現れないらしい。
「きっとその女の子が、からんでいるんだと、思う」
「オレもそう思う」
「さすがレンだな」
 三人は、互いに目を合わせ、にんまり、と笑みを浮かべた。次は、図書室の女の子について、解明するのだ。
「なあ、このまま七不思議ぜんぶを解明するって、どうだ?」
 あすかが提案した。ふたりとも、反対するはずがなかった。
「恥ずかしがりやなら、夏休みはいいタイミングだな。図書室も開放しているし、ふだんより人がいない」
「それにカオル。まだ、読書感想文の本、借りてないだろ?」
「な、なんで知ってんだよ」
 あすかがニヤニヤ、と笑いながら、言った。カオルは、どきり、とした。
「ちょうどいいじゃん。宿題も終わって、七不思議のこともわかる。一石二鳥だ」
 宿題、と聞くとカオルは、とても嫌そうな顔をした。すると、レンはあきれた様子で、言った。
「毎年、お前の宿題に付き合わされる身にもなれよ」
「あー、へへ」
「笑ってごまかすなっ」
 あすかがこつん、とカオルを小突いた。カオルは毎年、宿題をギリギリまで残している。それも、読書感想文、算数、国語などのプリントやドリルを、だ。八月が終わりに近づくと、あすかとレンのところに、泣きついてくるのだ。泊まりがけで、宿題を終わらせるのは、毎年大変だ。だから、今年こそはそれを、避けたいのだ。
 せみの鳴き声が、夏休みのカウントダウンを始めていた。三人は、いつも以上に夏休みが待ち遠しかった。