チェンジリング 04

4.ノース・イースト・エアへ

 マリィナの行動は早かった。その日のうちに準備を済ませ、シリーに翌日には旅に出ることを告げた。シリーはあまりにも急で驚いたが、マリィナの真剣な眼差しを見て止められないと悟った。ただ『ご無事で』と一言添えた。
 翌日マリィナが出発するときに、シリーがどんぐりパンや干したキノコや果物、チーズなどの食料をたっぷり持たせてくれた。
「ありがとう。行ってくるね」
『お気をつけて』
 マリィナは中央の大通りをまっすぐ進み上り階段を目指した。池にかかっている橋を渡り、広場についたが珍しく誰もいなかった。
「これを上がったら、インナップヒルから出るんだ……」
 マリィナは天井を仰いだ。天井と地面を支えるように立っている大木に巻き付くように設置されているらせん階段。蔦が根っこのように張り付いており、らせん階段は延々と続いているように見えた。マリィナは胸が高鳴っているのがわかった。深呼吸をして一歩踏み出した。
 一歩もう一歩と進んでいく。半分くらい上って見下ろすとインナップヒル全体が見渡せた。五つの大通りが村に伸び、隣の地区を繋ぐ道は大小二つの楕円を描いている。楕円の内側や外側には森や林が茂っており、リィ地区やイ地区の色とりどりの屋根が美しい。
「わあ、きれいっ。あたしここに住んでたんだ」
 しかしマリィナはしばらくここを留守にしなければならない。決心が揺らいでしまいそうだった。しかし頭を振り、歩を進めた。ぐるぐると階段を上がっていくと自分も蔦になったような気分になった。また上へ上へと行くのはわくわくした。
 足が疲れてきたころ、ようやくらせん階段が終わった。そこには矢印の形をした看板が立っていた。左を指している看板には【人間界へ】と、右を指しているものには【坑道、内回り、外回り】と書かれていた。マリィナは右に曲がった。
 インナップヒルと違って道は規則的に鉱物のランプがかけられており、天井も壁も地面もごつごつしていた。ひんやりとしている空気はケリドウェンのそばに立っているときと似ていた。しかし誰もいない道は進んでいるのに不安で更に寒くなっているような気がした。
 しばらくすると道は三つに分かれていた。そこにもそれぞれ矢印の看板が立てられていた。真ん中の道には【坑道】、右には【外側】、左側には【内側】と示されていた。
「確かケリドウェン母さんは内側って言っていたから、こっちね」
 マリィナは左に進んだ。背後から鉱物を掘る、細工するのが得意なドワーフやどこに宝石があるかわかるノッカーなどの陽気な歌声が聞こえた。マリィナはもうふり返らなかった。

 そこからマリィナは様々な村を旅した。村は四つの種類に分かれた。
 澄んだ大きな川が流れている村には水の妖精たちが住んでいた。歌声が美しいローレライ。あばらが浮き出るほど細い体に猛禽類のように鋭い四本の爪を持って、下半身が魚の女性の妖精、ペグ・パウラー。あざらしの皮を被ったセルキー。長い金髪で更に金髪の子どもが大好きなタルイス・チーグには何度も引き留められ、逃げるように去った。
 常に心地よい風が吹く風の村では、風を吹かせることが大好きなシルフ、元気いっぱいでずっと飛び回るいたずら好きなスプライトとは友達になりよく遊んだ。岩をも持ち上げる大男のフェノゼリーと一緒に草刈りをするのは楽しかった。
 溶岩が噴き出す火の村ほど暑いところはなかった。火のとかげサラマンダーはお茶目だった。体は火でできていて体格のいいジンは強面だが親切な妖精で、道案内をしてくれた。鍛冶屋のヴェルンドは汗をかきながら溶岩の塊から美しい宝石を生み出した。
 丘の下にあることが多い土の村は、インナップヒルにとてもよく似ていて居心地がよかった。住んでいる妖精もゴブリンやピクシー、ドワーフのほかに、ケンタウルスがいる村もあった。
 マリィナは目的地のノース・イースト・エアに着くまでに様々な村を訪れた。村があるところや特徴は似ていても、同じ村は一つとしてなかった。マリィナは自分の世界はとても小さくて狭いことを知った。妖精にも様々な種族があり、その中でも全く同じという妖精はいなかった。

インナップヒルから内側に進んで十七個目の村、ノース・イースト・エアに着いた。村の中への入口は山と山の間にあった。そこを通るとすぐに長い滑り台があった。ところどころ曲がりくねっている。こんな入口は初めてだった。
「なんか楽しそうっ」
 マリィナはためらうことなく滑り台を滑った。初めはそれほどのスピードではなかったが、どんどん勢いがついてきた。今手すりで無理やり止めれば手の平の皮がめくれてしまうだろう。耳には風のごおうっという音しか聞こえなかった。くねくねしたところを三か所ほど過ぎてしばらくすると、滑り台が途切れていた。よく見ると少し先に続きがあるが、その間には四つの雲が浮かんでいた。
「ええっ?ど、どうしようっ」
 なにもできないまま、マリィナの体が勢いよく飛ばされた。
「きゃーっ!」
 マリィナの真下には雲があり、そのまましりもちをつくように落下した。すると雲の上で体が跳ねた。そのまま次の雲へ、また次の雲へとバウンドした。そして四つ目の雲にはじかれて滑り台の続きに尻から着地した。だが一息吐く間もなくマリィナ自身の重みで再び滑り出した。
「いったあ……。ってわわっ。ちょっと待ってえ」
 慌てている間にスピードは緩やかになり、怪我することなくノース・イースト・エアの大地を踏んだ。滑り終えると徐々に頬が上気した。
「い、意外と楽しかったかも」
 マリィナは興奮気味に立ち上がった。
 ノース・イースト・エアは穏やかな風が吹く村だった。すっきりとした青空に、ぽってりとしたクリームのような雲が浮かんでいる。青々とした草原には見たことがない建物が点在していた。二枚の長い板がばつ印の形で組まれていて、それが屋根の上や屋根裏くらいの位置に設置されている。ばつ印の板は風が吹くとゆっくり回転した。
「なんだろう、あれ」
 マリィナは気になりつつも、歩み始めた。
「ここにあたしと同じ、チェンジリングがいるんだ……。とにかく誰かに聞いてみないと」
 マリィナは一番近い集落を目指した。道らしい道はなく、さくさくと足音を立てながら草原を歩いた。
 その集落に着いたマリィナは、すれ違いそうだったシルフに声をかけた。
「あの、すいません」
『おや、見ない顔だ。しかも人間じゃないか』
「あのお尋ねしたいんですけど」
『はいはい、なんだい?』
「この村にチェンジリングされた人がいるって聞いたんですけど、ご存じないですか?」
 シルフは『ああ、あの子か』と親切に教えてくれた。マリィナはお礼を言って、その場を去った。
 そのチェンジリングはこの先にある小川を超えた先、下流のほうにいるらしい。左手側遠くには山が見えており、どうやら小川はそこから流れているようだった。一番大きな集落は滑り台のそばにあったところで、ほかは五軒にも満たない集まりであった。畑や牧場を持っていた。見慣れた赤く耳の丸い牛が草を食んでいる姿はのどかで和んだ。
 滑り台の集落からまっすぐ進むと別の集落があった。念のためチェンジリングの家がどこか確認してみると、更に下流で次に見えた橋を渡るとすぐに家だと教えてもらった。
 言われた通り橋を渡ると家が二軒並んでいた。一軒は畑があり、一方には牛の牧場があり、例のばつ印の板が取り付けれていた。
「どっちだろう……」
 マリィナは左側にある、牧場の家をとりあえず訪ねてみることにした。赤く耳の丸い牛三匹がモーと鳴いた。  マリィナは扉をノックした。中から出てきたのは絹のような金髪の女性の妖精だった。二十代前半くらいに見える。右目は長い前髪で隠れており、左はルビーのような深紅の瞳でずっと見つめていると吸いこまれてしまいそうだった。 「あ、あのすみません。このあたりにチェンジリングされた人がいるって聞いてきたんですけど、ご存知じゃありませんか?」
 赤い瞳の妖精はじいっとマリィナをじいっと見つめていた。
「いないよ、そんな人間は。まあ……『元』人間ならいるけどね、ここに」
 マリィナは目をぱちくりとさせた。赤い瞳の妖精はくすりと小さく笑った。
「どうぞ。あなたが探しているのは私だよ」
 赤い瞳の妖精はすっと手を差しだした。
「私の名前はウィンル。あなたは?」
「あ……マリィナっていいます」
 マリィナはウィンルと握手をした。
「マリィナ、どうぞあがって」
 ウィンルは握手した手の向きをするりと変え、手を繋いだままマリィナを家の中に入れた。
 クリーム色の木材でできた家の中は、キッチンと居間が一緒になっており、四角いテーブルは二人もいればいっぱいになってしまうくらい小さかった。
「今お茶を淹れるよ。その辺に座ってて」
 ウィンルは陶器のケトルを薪ストーブの上に置いて、お茶を淹れる準備をした。マリィナは遠慮がちに座り部屋を見回した。部屋そのものは広いものの、この一室しかないのかタンスやベッドなども置かれていた。ベッド側の壁に掛けられている作業着は同じものが三着ほどある。家具はどれもシンプルで、マリィナの部屋とは正反対だった。
「はい」
 真っ白なティーカップには紫色のお茶が注がれていた。湯気といっしょにふんわりとラベンダーの香りがした。
「ラベンダー茶ですね。あたしの村ではあんまりなかったんですよ。スミレ茶が多かったんです。朝露で水出ししたりとか」
「そうなんだ」
 マリィナはゆらめく水面を見つめて、シリーや妖精の両親のことを思い出してしまった。ティーカップの中に村のみんなが見えたような気がした。
「どうしたの?」
 ウィンルはぼうっとしているマリィナの顔を覗き込んだ。マリィナははっとして「なんでもないです」と言って、ラベンダー茶を口に含んだ。ウィンルも椅子に腰かけお茶を飲んだ。
 カチャンッとティーカップが置かれる音を合図としたようにウィンルが口を開いた。
「それで、私に用っていうのは?」
 マリィナは背筋を伸ばしてまっすぐウィンルを見た。
「あたしは自分が人間だってこと、このあいだ初めて知ったんです。チェンジリングのことも。それでいろいろ考えたんですけど、あなたのことを聞いて会ってみたいと思って……」
「同じチェンジリングがどんな人間なのか?」
 ウィンルの言葉にマリィナは頷いた。ウィンルはマリィナの耳を眺めながら問うた。
「あなたは本当の親がどんな人だったかは知っている?」
 マリィナは首を横に振った。ウィンルはテーブルに肘をついて指を組んだ。その上に顎を乗せて視線を斜め下に落として淡々と語り出した。
「私がチェンジリングだって知ったのは五歳のころ。両親のシルフが教えてくれた。私の本当の親のことを。
 私はね、望まれていなかったみたい。あんまり裕福じゃなかったんだって。もうお姉ちゃんやお兄ちゃんもいっぱいいて、生活もギリギリだったみたい。そんな状況で私が生まれちゃった。……捨てようか迷ってたんだって。だから父さんや母さんは私をここに連れてきた。私はね、父さんと母さんに命を救われたんだ」
 ウィンルはにっこりとマリィナに笑いかけた。
「だからね、フォイゾンを食べるのにも迷いはなかった。私、人間だったのってとても短かったんだ。だからあなたの力になれるかどうかわかんないよ?」
 マリィナはなんと言えばいいかわからなかった。それが顔に出ていてウィンルは笑顔のままマリィナに聞いた。
「そういえば人間って知ったのが最近なのに、フォイゾン食べてなかったんだよね。なんで?食べちゃダメとか言われてたの?」
「いいえ。むしろあたしの母さんたちは食べさせようとしていたみたいなんですけど、すごく泣いて絶対食べなかったそうなんです。それにフォイゾンの匂いとかも苦手でしたし、なんだか……苦手なんです」
 ウィンルは「ふむ」と何やら考えているようだった。今度はマリィナが言葉を紡ぎ出した。
「私、ずっとみんなと違うことが気になってたんです。でもここに来るまででいろんなことを知ったんです。いろんな村があること、誰も全く同じ存在なんていないこと。だから……あたしも違ってて当たり前なんだって」
「うんうん。それがわかるのはとってもいいことだ」
「でも、あたし自身はこれからどうしたいのかわからなくって……」
 マリィナの視線がどんどん下がっていく。ウィンルは「よしっ」と膝を叩いた。
「しばらくうちに泊まりな」
「へ?」
 思わぬ提案にマリィナは変な声が出た。そんなことも気にせずウィンルはひとり、うんうんと何度も頷いていた。
「いいじゃんか。答えが出るまでここにいなよ」
「で、でもご迷惑じゃ……」
「じゃあさ、牛の世話とかいろいろ手伝ってよ。それならいいだろう?チェンジリング同士話すことなんて滅多にないんだからさ。私もちょっとあなたのこと、気になってきちゃったんだ」
 ウィンルはちょっと照れくさそうに言った。マリィナはそこまで言ってもらっているなら、とウィンルの言葉に甘えることにした。
「よろしくおねがいします」
「はいよ」
 マリィナとウィンルは共同生活が楽しみになった。

 その日、ばんごはんの買い出しも兼ねてウィンルがこの村を案内してくれることになった。
「そういえばウィンルさん」
「ウィンルでいいよ」
「えっとウィンル。あの板はなんなの?ほかの風の村では見たことがなくって」
 マリィナはばつ印の板を指さして尋ねた。
「ああ、あれは風車だよ。あれで風がどれだけ吹いているのかわかるんだ。シルフたちが調子に乗って風を強くしすぎないように目印として設置されている。ちなみに私はその風車を点検したり修理するのが仕事」
「へえ。あんな大きなものを修理するんだ。すごいっ」
「へへ。まあほかのものも直すね。これが結構楽しいんだ」
 ノース・イースト・エアを歩きながらウィンルは村のことを教えてくれた。どの妖精もチーズやミルクが大好きで中には育てている者もいること、人間と知恵比べで負け続けたせいで人間界の野菜をとるのをやめて育てるようになった妖精もいること。ここではハーブのパンがよく食べられること、草が伸び放題になっていないのはほかの風の村のようにフェノゼリーが鼻歌混じりに草刈りをしているからだということ。それほど住んでいる妖精は多くないこと。空に浮かんでいる雲の中には家になっているものもあり、それには住人の名前が書かれたプレートがかけられていること。
「この村の風は緑の匂いがするんだって。それが気に入った妖精たちが住むようになったんだ。やっぱりほかの風の村と、風の匂いって違う?」
「そういえばそうかな。湖の匂いがする村もあったし、花の甘い香りがするところもあったよ」
「へえ、やっぱり村によって違うもんなんだね」
 彼女も今までのマリィナと同じように、ずっとこの村に住んでいるのでほかの村のことを知らないのだ。買い物をしながらマリィナも訪れた村のことを話した。ウィンルはほかの村の話を興味深そうに聞いていた。
 その日のばんごはんは、ハーブと花のサラダとキノコのバター炒めだった。ウィンルは「簡単なものでごめんね」と言いながら皿に盛った。シリーに比べて濃い目の味付けだったがおいしかった。
 寝るころになるとマリィナもウィンルも互いのことをたくさん喋っていた。
「ベッド、狭くってごめんね。一人だと十分広いんだけど」
「ううん、全然平気。もっと狭いベッドしかない村もあったから」
 マリィナはウィンルと一緒にベッドに寝転んだ。ウィンルは自分の作業着を畳んで枕代わりにして、マリィナに綿雲でできた枕を譲った。
「シルキーがいたら確かにいいだろうなあ。おいしいご飯も食べられるし、楽しそうだ」
「この村にシルキーはいないの?」
「うーん、いるのはいるけど一人か二人だなあ。しかももう別の家で住まわせてもらっているし」
 ウィンルはマリィナのほうに寝返りを打った。
「私さ、こうやって誰かが泊まるのでて初めてなんだ。誰か自分以外が家にいるっていうのが」
「そうなんだ」
「だから結構楽しい」
「あたしも」
 二人は笑い合った。そして向き合ったまま眠りについた。

 マリィナはウィンルの手伝いをした。炊事や洗濯のほかに牛の世話もした。
 マリィナがウィンルを訪ねて三日経った。一人の銀髪のピクシーがやってきた。ウィンルに風車の修理を頼みに来たのだ。ウィンルはすぐに準備をした。
「マリィナも来る?」
「いいの?」
 マリィナは洗い物を早々に切り上げ、ウィンルについていった。
 ピクシーの家はマリィナの背くらいしかなかった。
『風が吹いてるのに動かないんだ』
「ちょっと見てみる」
 ウィンルは慣れた手つきで風車を取り外し、あちこち触った。いろんな角度から風車やほかの部品を点検している。その眼差しは、この数日で初めて見るものだった。真剣で小さな不調も見逃さない、仕事に対して誇りを持っている目だった。マリィナはそんなウィンルをまるで魔法にでもかかったようにじっと見ていた。
『キミ、ウィンルのところに来た人間だろ?』
 マリィナはピクシーに話しかけられて、現実に帰ってきた。ピクシーはマリィナを見つめたまま小さく首を傾げた。
『今キミの話で持ちきりだ。ウィンルと友達なの?』
「えっと……と、友達になったわ」
 マリィナはぎこちなく答えた。ピクシーはそんなことに気付かず『いいことだ』とにこりとした。
『ウィンルはすごいぞ。あっという間に直しちゃうんだ。ほら、見なよ』
 マリィナはウィンルに視線を移した。ウィンルは歌うように呪文と呟きながら手を動かしていた。指から虹色の光が放たれ、太さが様々な紐になった。その紐で解体した風車の部品や板を括りつけていた。結び終わると紐は息をするように消えた。
『ウィンルはあんな風に物を直す魔法を使うんだ。いつ見ても見事だよ』
 ピクシーは腕を組んでその様子を見ていた。それから二言三言話しかけてきた。マリィナは返事をしながら手際のいいウィンルの姿を見ていた。

「やっぱり魔法が使えるようになったのって、妖精になってからなの?」
 風車の修理から帰ってきた二人は一息ついてお茶を飲んでいた。そんなときにマリィナがウィンルに尋ねた。ウィンルは首を縦に振った。
「人間のときは使えなかったよ。短い間だったけど」
 一拍空いてウィンルが口を開いた。
「私さ、フォイゾンを食べるのに全然抵抗なかったって言ったでしょ?」
「うん」
「自分が人間だって話されたとき、もう私の本当の家族は死んでるって言われたんだ。こっちのほうが人間界よりも時間がゆっくり流れるから、もう私を知っている人は誰もいないって。きっと……それもあったから妖精になるのも怖くなかったのかも」
「じゃあ、あたしの両親も……」
「……多分もう亡くなってるんじゃないかな。こっちで五年経ったくらいでそんなのだったら」
 マリィナはぽっかりと穴が開いた気分になった。どれだけ自分のことを知ろうとしても、両親のことを知りたくっても、もう誰も知っている人はいない。自分が悩んできたのは無意味だったのではないか、という考えがマリィナの頭によぎった。体の力が徐々に抜けていく。
「ほ、本当にいないのかな?」
「さあ?」
 マリィナの縋るような声に対してウィンルは淡々とした口調で答えた。
「私の場合は、ってだけ。それに気になることもあるんだ」
「気になること?」
 マリィナは不安げにウィンルを見た。ウィンルは過度な期待をさせないように言葉を選びながら話した。
「マリィナはフォイゾンが怖いって言ってたでしょ?それには理由があると思う」
「理由……」
「これは私の勝手な想像だから、あんまり期待しないでほしいんだけどさ……。マリィナをずっと待っている人がいるんじゃないかなって。それだけ強い気持ちがマリィナに届いているんじゃないかな、とも思うんだ。もし私とマリィナに違いがあるとするならフォイゾンを食べられるかどうかだと思うから」
「誰があたしを待ってくれてるんだろう……?」
「わかんないよ?いないかもしれないし。それにその……」
 ウィンルはちらりとマリィナの顔色を窺った。そして言おうかどうか迷っていたが結局言葉にした。
「ずっとここの食べ物を食べているんだったら、体は妖精に近づいている。この世界の食べ物を人間が食べると少しずつ……蟻の一歩くらいちょっとずつだけど、体が妖精に近づくって聞いたことがある。だからマリィナの体は人間と妖精半々って感じだ」
「え、あたし……人間じゃないの?」
 マリィナの不安げな表情にウィンルは慌てて訂正した。
「もちろん人間だよ。完全に妖精ではないし……」
 マリィナはますます頭がこんがらがってしまった。どちらでもないのなら、どちらだと決められるのだろうか。ぐるぐると思考がループしていると、ウィンルがぽつりと呟いた。
「でも、もしそうなら……誰かが待ってくれているんならマリィナは幸せだよ。私はいらなかったみたいだから」
 ふとウィンルの表情が陰った。しかしすぐににこっと笑い「なんか湿っぽくなっちゃたね」と謝った。
「でもね、後悔はしてないんだ。だって私の父さんと母さんはここにいるから」
 その晴れた空のようなすっきりとした笑顔で、マリィナはウィンルが心の底からそう思っているのだとわかった。マリィナの心のもやが少し晴れたような気がした。

 夜、ベッドで天井を見つめながらマリィナは考えていた。これから先、どんな選択肢があるのか、と。
 人間としてこの妖精界で生きていくのか。
 フォイゾンを食し妖精として生きていくのか。
 人間と妖精ともいえないまま、心を腐らせて生きていくのか。
 自分のことを知る人のいない人間の世界へ旅立つのか。
 マリィナにとって選択肢はいくらでもあるようにも、それほどないようにも思えた。人間とも妖精ともいえない、中途半端な存在であるという事実に、マリィナは囚われてつつあった。
「じゃああたしが悩んだのって無意味じゃない……。どっちでもないなら、どっちにも居場所なんてないじゃない」
「そんなことないんじゃない?」
 マリィナははっとした。さっきまで目を閉じていたウィンルがマリィナと同じように天井を見つめていた。
「悩むってことはそれだけ真剣に自分と向き合ってるってことでしょ?すごいよ」
「ウィンル……」
「それにマリィナが悩んだからこそ、私たちは出会ったんじゃない。悩んでいいんだよ。いっぱいいっぱい悩んだら必ず答えは出るんだからさ。だからマリィナもきっと答えが出せる。後悔しない答えが」
 ウィンルは「ね?」とウィンクをした。マリィナは胸がじんと熱くなり涙が溢れてきた。
「う、ウィンル……あたし、あたし……」
「うんうん。大丈夫だって」
 ウィンルは優しくマリィナを抱きしめた。マリィナは泣き疲れて温かい腕の中で眠ってしまった。

 翌日マリィナは太陽が高く昇るまで目を覚まさなかった。ウィンルが今日一日はなにも手伝わなくていいと言ってくれたので、村を歩き回ることにした。
 山のほうへなにも考えず歩いていた。一本だと思っていた小川は実は二股に分かれていて、ウィンルの家のそば以外にもある。右手側に流れる小川にかかっている橋を渡ると、夢のような景色が広がっていた。赤、ピンク、オレンジ、白など色とりどりの花が咲き乱れていたのだ。ウィンルと村を歩いたときはここまで来なかったのだ。
「わあっ、きれい!」
 低木の黄色いハリエニシダが所々で胸を張るように咲いていた。ポピーにコスモス、野バラもある。甘い香りに誘われてマリィナは花畑に倒れこんだ。花がふんわりとマリィナを受けとめてくれた。空にはいくつも雲が流れていた。
「あの雲はただの雲なのかな?それとも家なのかな?」
 マリィナはぼんやりとそんなことを思った。
「あたしは……どっちなんだろう。どっちとして生きればいいんだろう」
 マリィナは妖精として生きるのもいいかもしれない、と思い始めていた。フォイゾンが怖いという点のみ我慢すれば、妖精としてみんなと同じように生きていけるのだから。ウィンルも同じ道を選んだのだから。それでもいいと思えていた。しかしマリィナはウィンルの一言がひっかかっていた。
「誰かがあたしを待っているかもしれない、か……」
 死んだマリィナの本当の両親以外に誰かがマリィナを待っていることを考えると、どうすればいいのかわからなくなってしまうのだった。待っているのはマリィナ自身なのか、人間としてのマリィナなのか。いやそもそも誰かが待っているという保証はない。
「もし誰も待っていなかったら、誰もあたしのことを知らないなら……人間である必要はないのよね」
 マリィナの顔に雲の影が落ちた。ウィンルはフォイゾンを口にすることに抵抗がなかったと言っていたことの意味を細かく噛み砕きながら雲を見つめた。
「ウィンルはシルフの両親から強く望まれていたのかもしれない。だからフォイゾンが怖くなかった。ルド母さんたちもきっとウィンルの両親と同じくらいそう思ってくれていたはず。だってミルクに混ぜたくらいだもの」
 雲が通り過ぎマリィナの顔を太陽が再び柔らかく照らし始めた。
「でもそれよりも強い思いが、あたしを引き留めていた。その思いって、産んでくれた母さんの気持ちも入っているのかしら?」
 そう思うとマリィナは猛烈に産みの親に会いたくてたまらなくなってきた。もう亡くなっているのだとしても、両親のことを知りたいと思った。
「産んでくれた母さんや父さんを知るには、人間界に行くしかない」
 ルドもケリドウェンも産みの母親のことまで詳しく知らないだろう。
「フォイゾンを食べさせようとしていないのが産んでくれた母さんの思いなら……きっとあたしはまだフォイゾンを食べるべきじゃないんだわ」
 マリィナはすくっと起き上がった。もやもやとした気持ちはすっかりなくなっていた。
「帰ろう。母さんのもとに」
 マリィナの目は太陽の光に反射して、本物のエメラルドのように輝いていた。
 マリィナはしっかりとした足取りでウィンルの家に帰った。
「ああ、おかえり」
 ウィンルは本を片手にベッドに腰かけていた。マリィナはウィンルの真正面に立った。
「ウィンル。あたし、帰る」
「……どこに?」
「人間界に」
 ウィンルは本を閉じた。ルビーの瞳とエメラルドの瞳が絡み合う。その目に迷いがないことを察して安心したように小さく溜息を吐いた。
「後悔しないね?」
「ええ。だから、ここから人間界に行く道を教えてくれない?」
「ここからは行かないほうがいい。きっとマリィナの故郷とは全く別の場所に出ちゃうと思う。人間界へはそれぞれ決まった入口があるから。だからマリィナの人間界の故郷には、マリィナが住んでいたインナップヒルからじゃないと行けないんじゃないかな」
「そうなの?よかったあ、聞いておいて」
 人間界で彷徨うことを想像したマリィナは軽く冷や汗をかいた。ウィンルはマリィナの右手をとった。
「でもせめて今日一日はいてくれない?友達と突然別れるのは辛いから」
 マリィナは左の中指を見てプラトと別れるときのことを思い出した。マリィナはゆっくり頷いた。
「マリィナ」
「ん?」
「おめでとう」
 ウィンルは嬉しさと寂しさが混ざった笑顔をマリィナに向けた。マリィナはただ一言「ありがとう」と空いた手でウィンルの両手を包みこんだ。
 翌朝、日が昇ってすぐにマリィナはウィンルの家を出発することにした。ウィンルは薄いシルクの羽織りを着てマリィナを見送った。
「ウィンル。本当にありがとう。あなたに会えてよかった」
「マリィナ……。私も会えてよかった。友達になれてよかった」
 二人は力強く抱きしめ合った。マリィナは後ろ髪を引かれる思いでウィンルと別れた。
 風がマリィナの背中を押した。