チェンジリング 05

5.産みの母親

 ノース・イースト・エアを出て一週間後の昼間にマリィナはインナップヒルに帰ってきた。まずルドとケリドウェンに挨拶をした。そして自分の意思を告げた。ルドとゴブルは何度もマリィナを引き留めたが、決心が変わらないとわかると二人とも涙を流しながら納得してくれた。ケリドウェンは『そうかい』とだけ言って、マリィナの頭を撫で、ひんやりとした体で短く抱きしめてくれた。
家に帰るとシリーが明るい顔で出迎えてくれた。マリィナはシリーにすべて話した。そして両親と同じように翌日に人間界へ旅立つことを告げた。シリーはとても苦しそうな顔をしたが『わかりました』と言った。いろんな言葉を飲みこんだのがよくわかった。
その日の夕飯はシリーが腕によりをかけて作った。焼き立てのどんぐりパンに木いちごジャム、キノコのチーズがけ。どうやって手に入れたのか鹿の涙のスープがあった。デザートにドライフルーツとはちみつのパウンドケーキまで用意されていた。ここまでのごちそうは滅多にない。マリィナはシリーの料理を舌に焼き付けるようにじっくり味わった。 食事を終え、マリィナはシリーの部屋に行った。
「シリー、いい?」
『どうされたんですか?』
 シリーはもう寝間着に着替えていた。
「……一緒に寝ていい?」
『はい』
 マリィナとシリーは同じベッドで寝た。
「シリー。ご飯おいしかった。ありがとう」
『いいえ。……もう帰ってこないおつもりですか?』
 マリィナはどう返事をしようか迷った。この家に帰って来ないと言えば、シリーはシルキーとしての居場所がなくなってしまう。けれどどうなるかわからないため戻ってくるつもりだともはっきり言えなかった。返事に困っているとシリーは『すみません』と謝った。
「謝らないで。あたしこそごめんね、答えられなくって」
『いいえ。それであなたが後悔をしないなら、幸せになれるなら、それだけで十分です』
「……ありがとう。本当にありがとう、シリー」
 その後二人は静かに目を閉じた。
 翌朝。正真正銘、シリーに作ってもらう最後の食事を食べた。シリーは家の敷地から出られないため、玄関でマリィナを見送った。
『マリィナ、お元気で』
「うん。シリーも元気でね」
 マリィナは強く抱きしめ、一度も振り返ることなくらせん階段に向かった。小さくなっていく背中を見つめながらシリーは小さく呟いた。
『どうか、あなたの道に幸多からんことを』

 らせん階段の足元にある広場にはルドとゴブル、ケリドウェンが見送りに来ていた。
「母さん、父さん。来てくれたの」
『ああ』
『仕方ないからね』
 マリィナはルドとゴブルを、それからケリドウェンを抱きしめた。
『シリーのことは心配しなくていいよ。あんたの家に引っ越すから、そのままあそこにいられるからね』
 不愛想にそう言ったのはケリドウェンだった。安心したマリィナはもう一度ケリドウェンに抱きついた。
『後悔するんじゃないよ』
 抱きしめ返しながらケリドウェンは言った。マリィナは頷いた。
『辛かったら帰ってくるんだよ』
『気をつけな』
 ルドとゴブルもケリドウェンに続けて言った。マリィナはもう一度首を縦に振った。
「ケリドウェン母さん。ルド母さん、ゴブル父さん。今までありがとうございました」
 ルドとゴブルはおいおい泣きながら再び引き留めようとしていた。ケリドウェンがそれを遮って『早くお行き』とマリィナに出発を促した。
「いってきます」
 マリィナは一歩を踏み出した。
 らせん階段を上がりながらマリィナはこれまでのことを思い出していた。
 ルドやゴブル、ケリドウェンとともに過ごした幼少時代。ケリドウェンから教わった機織り。プラトと遊んだ日々。
 大きな木の家で始めた一人暮らし。やってきたシリー。シリーのおいしいご飯。
プラトとのチェンジリングで自身が人間であるとわかったこと。
ノース・イースト・エアに行くまでに出会った妖精や訪れた村。
ノース・イースト・エアの入口の滑り台や、ウィンルのこと。ウィンルと過ごした日々。
 こうして思い出してみるとマリィナはみんなにかわいがってもらっていた。愛されていた。愛してくれる存在がここにもいた。
「あたしを娘にしてくれてありがとう。人間でも……種族が違っていても愛してくれて、本当にありがとうございました」
 自然と涙が溢れてきた。どれだけ上を向いても頬に涙が伝った。それでも決して下を向かなかった。
 らせん階段を上がりきると矢印の看板が待っていた。【人間界へ】と書かれた左に曲がった。坑道よりも歩きやすく緩い上り坂になっていた。少し歩くとすぐに土でできた扉が現れた。マリィナは力いっぱい押した。
「ぬぐぐっ……。開かない……」
 どれだけ体重をかけても扉はびくともしなかった。ふと目線を下げると取っ手があり横向きに矢印が描かれていた。
「あ、スライド式……」
 めいいっぱい横に引っ張るとズズッと重い音を立てて開いた。一人分のすき間ができるとマリィナはそこから外に出た。
 太陽の光がまぶしくてマリィナは一瞬目がくらんだ。再び開いた目に飛び込んできたのは真っ青な勿忘草の海だった。その向こうには針葉樹の森があった。
「きれい……」
 マリィナはしばらく花畑に見惚れていた。このまま見ていたかったが、人がいないか探すことにした。マリィナは勿忘草の海の中を進んだ。

 マリィナが森を抜けるころには影が濃くなり、夜の気配が近づいていた。
「どうしよう、なんとか人を見つけないと……」
 マリィナは森の中をまっすぐ歩いたつもりだった。しかしいつの間にか方向がずれ、気がつけば迷っていた。
「ど、どうしよう……」
 とっぷり暮れて星まで出てきた。出口がわからずマリィナは不安と焦りでいっぱいだった。しかし怖いとは決して口にしなかった。言ってしまえばもっと恐ろしくなってしまうからだ。
「だ、だれか……だれかいませんかあ?」
 そのとき「オオーンッ」と野犬の鳴き声がした。マリィナは初めて聞く音にさらに恐怖心が膨れた。そのとき馬の蹄の音が聞こえた。耳をすませると左手のほうからしていた。マリィナは音がするほうへ「すみませんーんっ」と叫びながら走った。
 飛び出た根っこをジャンプしたり、おかしな伸び方をした枝をくぐりながら、ひたすら「すみませーんっ」と声を出た。馬の足音は近くなっているので方向は間違っていないようだ。
「すいませーんっ!誰かいませんかー」
 そのとき馬の足音が止まった。マリィナはもう一度思いきり「すみませーん」と叫んだ。すると「誰かいるのか?」と男性の声が聞こえた。
「いますっ。ここにいます!」
 そう言いながらマリィナは木の陰から姿を現した。止まっていたのは古い馬車だった。マリィナはこのとき生まれて初めて馬車を見た。声の主であろう男性はランプを掲げた。夜の森に紛れてしまいそうな黒髪で紫色の目を丸くしていた。六十歳手前くらいだろうか。
「こんなところで人に会うなんて何年ぶりだ。どうしたんだい、お嬢さん」
 マリィナは馬車に近づきながら道に迷ってしまったこと、誰かいないか探していたことを話した。すると男性は「このあたりは宿がないので、よかったらうちに泊まらないか」と申し出てくれた。マリィナはその言葉に甘えることにした。きっとケリドウェンが見たら『知らないやつについて行くんじゃないっ』と怒られただろう。しかし今のマリィナにはそこまで考える余裕がなかった。マリィナが乗ったことを確認すると男性は再び馬を走らせた。
「それにしてもこんななんにもないところになんでまた……」
 馬を走らせながら男性が尋ねた。
「実は人探しをしているんです」
「ほう。どんな人なんだね?」
 マリィナは言葉を選びながら答えた。
「えっと、顔や名前はわからないんですけど、あたしの母さんなんです。あの、このあたりに村はありませんか?」
 男性はうーんと唸りながら「ないねえ」と答えた。そしてこう付け足した。
「六百年前には小さな村があったそうだけれど、その後の流行り病で随分人が減ったそうだ。その後も人が増えることなく、村はなくなったそうだ」
 やはりなくなっていた。覚悟していたつもりだがいざわかってみると、やはり悲しくなるものだった。
「あ、あの、その村にどんな人がいたのかわかりませんか?」
「え?さあ、流石にそこまでは……」
 マリィナは落胆した。母親のことを知ることはできなかったのだ。
「えっと、お母さん探してるんだよね?」
 男性は首を傾げながらマリィナに尋ねた。しかし落ち込んでしまったマリィナにその言葉は聞こえなかった。

 しばらくして森を抜けると、男性の住む家があった。家というより小屋に近いかもしれない。
「すまないね。なんせ男やもめなもんでね」
 マリィナは室内を見回していたそのとき、左の中指がきゅっと締まったような気がした。ふと見てみると指輪が淡く光っていた。まるでなにかを呼ぶように点滅している。
「なんだろう……?」
 そのとき『おーい、セシルー』と聞き覚えのある声が聞こえた。窓のほうをふり返ってみると、よく知った顔がカゲロウの羽をぱたぱたと羽ばたかせていた。
「プロトっ?」
『えっ、マリィナ?』
 そのときはじかれたように男性が二人のほうを向いた。
「金髪、緑の瞳にマリィナ……。君はまさか……チェンジリングされた、マリィナなのかい?」
「えっ」
 マリィナは自分の耳を疑った。そしてぎこちなく頷いた。すると男性は膝から崩れ落ちた。
「だ、大丈夫ですかっ?」
『おい、セシル!』
 マリィナとプロトが駆け寄ると男性は「大丈夫だ」と言って、そばにあった椅子に腰を下ろした。両手で顔を覆い「ああ……」や「まさか本当に……」とぶつぶつ独り言を言っていた。しばらくすると落ち着いたのか男性、セシルは改めて説明してくれた。
「ぼくは、ぼくの一族はずっとここに住んでいる。流行り病でみんなが村を離れていっても、ずっとこの地にとどまり続けた。……ある少女、もしくは女性、もしくは赤ん坊を待つために。その子の名前は……マリィナ。金髪でエメラルドの瞳を持つと聞く」
「そ、それって……」
『本当にマリィナのことじゃないか?』
 セシルは「おそらく」と頷いた。
「ぼくが聞いている事の起こりはこう。
マリィナという赤ん坊が妖精の手によってチェンジリングされた。丸太と取り換えられてしまったんだ。七日以内に見破れば取り返す方法があるけれど、気がついたのは八日前だった。一日遅かったんだ。マリィナの母親はひどく悲しんだ。ずっとずっと家に籠ってしまうくらいに。食べものも喉を通らなくなり、次第にやせ細っていった。
 ……そして命尽きるときにこう言ったそうだ。『どうか、マリィナという女の子か女性が来たら伝えてほしい。あなたを愛していると。もっと一緒にいたかった。また会いたかった』と。
 父親も自分の母親から忠告されていたのに聞かなかったことを後悔した。だから妻の思いを何代にも渡って継がせた。だからぼくらは待ち続けた。十代に渡ってマリィナという女性か女の子をずっと待っていた。本当にいるとは思っていなかったよ。……待っていたよ、マリィナ」
「……母さん。父さん」
 マリィナは想像している以上に愛されていた。もう一度会いたいと思ってくれた人がいた。
「あたしも、あたしも母さんと父さんに会いたかったああ」
 マリィナは今までで一番大きな声で泣いた。母を、父を想って滝のように涙を流した。マリィナは涙を拭きながらセシルのほうを向いた。
「せ、セシル……ありがとう。あたしを待っていてくれてありがとお」
六百年もの間、ずっとマリィナのことを待ってくれている人がいた。母と父の血を継いだ子孫が、母と父の気持ちを紡いでいてくれた。これだけ強く想われていればフォイゾンを食べる気になれなくて当然かもしれない。
「こちらこそ戻ってきてくれてありがとう、マリィナ」
 そう言ってセシルはわが子にするようにマリィナを抱きしめた。マリィナは父に抱かれているような気持ちになった。そんな二人を見てプラトも感動して涙が浮かんでいた。
『あれ、でも待てよ……』
 ふとプラトはあることに気がついた。
『おい、セシル。オイラ、オマエたちとは長い付き合いだけど、そんな話聞いたことないぞ?』
「ああ。実はこのことは妖精には絶対知られちゃだめだからって、口外しちゃいけなかったんだ。話も妖精が来ないような教会でしてたんだ」
『なんだよそれえ』
 プラトは空中に身を投げ出した。
「長い付き合い?ねえプラトが言ってた友達になりに行った人間って……」
「ぼくのひい爺さんだよ。昔は病気がちだったんだけど、プラトと会ってから元気になったんだって。だからこのことを話せないのが申しわけなかったそうだった」
『ちぇー。まあいいや。こうやってまたマリィナと会えるようになったから、許してやるよ』
 三人はそれぞれ顔を見合わせてくすくすと小さな笑いが次第に大きな笑い声となった。
『なあセシル。三人でここに暮らそうぜ』
 プラトから魅力的な提案がされた。セシルは「いいね、それ」と同意した。マリィナももちろん「素敵っ」とプラトの提案にのった。
「じゃあこの小屋の改築をしなくちゃね。マリィナの部屋もきちんと作ろう」
『オイラの部屋もな』
「そうね」
 マリィナはセシルにある頼みをした。
「あの、もし母さんと父さんの……それから今まで待っていてくれた人のお墓があれば、お参りさせてもらえませんか?ずっと待っていてくれたから」
「ええ。一族だけの墓地があるんで、また案内するよ」
 セシルは「さて食事にしようか」とばんごはんの準備を始めた。マリィナも手伝うことにした。
 マリィナは十分わかった。自分がどれだけ愛されているか。愛してくれる人がいることはとても幸福であること。人間でも妖精でもない、ということは人間でもあり妖精でもあるということを。自分がどう生きればいいのかを。
三人で囲む食卓は今までにないくらい充実した時間を過ごし、料理がおいしく感じられた。