悲しみは純白 06

第6話

 世の中は不景気である。履歴書を書いては投函する日々を続けたこの二週間でみさとは十分すぎるほど体感していた。
「正社員への道のりがこんなに遠いことだったとは……」
 結果はすべて落ちて、所謂お祈りメールが何通もくる。着信が鳴るたびに一喜一憂する日々。
「結構キツいなあ……」
 ふとスマートフォンの画面を見ると、午後一時をすぎていた。
「……いっけない!今日尾上さん休みだったっ」
 自分だけなら適当に済ませるが、家主がいるならそういうわけにはいかない。リビングに急ぎ、冷蔵庫を開けて頭の中で献立を立て始めた。特売の水菜、舞茸としめじ、厚切りベーコン。ベーコンは尾上のこだわりでブロックと、薄いハーフベーコンの二種類がある。しかし昨日の朝ごはんで薄いハーフベーコンは使い切ってしまった。
「確かこっちの棚に……。うん、パスタも二人分ぎりぎりありそう。いや尾上さんの場合、足りるのか……?私の分減らして尾上さんにまわすか」
「そんなことしなくてもいいですよ」
「うひゃあっ」
 心臓がいつもよりも大きな音を鳴らしている中ふり返ると、尾上がいつもより気が抜けた顔で立っていた。休みのときはこんな顔をしていることが多い。
「すみません、驚かせてしまって」
「あ、いえ。自分の考えに集中してしまっていたもので……」
「というわけで、食事は普通に半分ずつでいいです」
「あ、はい。遅くなってすみません。すぐに用意しますね」
「慌てなくていいですよ。倒れそうなほど空腹というわけではないので。
 ……どんなパスタにするんですか?」
 尾上はキッチンの作業台に並んでいる材料を覗きこんだ。尾上は「お、ベーコン」とどこか嬉しそうに小さく尻尾を振っていた。
「尾上さんはどんな味付けがいいとか、ありますか?」
「そうですね……あっさり系がいいですね」
「じゃあポン酢にしましょう」
 そう言ってみさとは手際よく準備を始めた。水菜はしっかりとボウルに溜めた水の中で繰り返し洗い、舞茸としめじは水で濡らしたペーパータオルで表面だけを軽く拭いた。別の鍋で二人分のパスタをゆでる。短冊形に切ったベーコンを先に炒め、舞茸としめじ、水菜の順にフライパンに投入し、強めの火力で炒め始めた。パスタがゆで上がると、炒めた具と和えてポン酢で味を付けた。
「お待たせしました」
 早々にフォークやスプーン、飲み物を用意して椅子に座って待っていた尾上は、待ち切れんとばかりに尻尾を振っていた。みさとは小さく笑った。
「いただきます」
「いただきます」
 尾上はスプーンでパスタをまとめてから口に運んだ。シャキシャキとした水菜、味の染みこんだキノコ。ベーコンの塩味。
「もう少し濃いほうがよかったですか?」
「いいえ。ちょうどいいです。胃の容量に関係なくいくらでもおかわりできそうです」
「よかったです」
 よくみさとは食後に感想を聞いてくる。おいしいか、ではなく口に合うかどうか、を。その言葉が二人の関係を表していた。
 ふと、尾上はみさとの顔を見た。目の下にはクマが浮かんでいる。一足先に食事を終えた尾上は、フォークに巻き付けたパスタを今にも口に運ぼうとしているみさとを誘った。
「このあと、ちょっと散歩にでも行きませんか?」
「ふぇ?」
 みさとは口の中に入りかけていたパスタをゆっくり出して「散歩?」と尾上の言葉をくり返した。尾上は一度頷いた。
「前に買い物に行った大きなスーパーがあったでしょう?あそこの向かい、フェンスや木々があってわかりにくいですけど、公園があるんですよ。まあ公園といっても大した遊具はなくて、芝生が広がっているくらいなんですが。冬になると道に沿って植えられた梅の花が見事なんですよ。池もあってボートにも乗れます」
「へえ。そんなところがあったんですか」
「家族連れが多くて独りだと浮いてしまうんですよ。よかったら付き合ってもらえませんか?」
「はい。もちろん」
 食後の洗い物は尾上が担当し、みさとは部屋に戻って準備を始めた。折り畳み式の鏡を見ながら、ようやく目の下のクマに気がついた。それを隠すように目元のメイクは少し厚めにした。
「そっか。だから尾上さん、気分転換に誘ってくれたんだ……」
 みさとはメイクの手を止めて反省した。
「尾上さん、今まで独りで気楽にやっていたかもしれないのに、私が来たから気を遣ってばっかり。……早く出て行かなくちゃ」
 みさとはメイクを終わらせ、バッグに諸々詰めこんで部屋を出た。

 尾上が話していた公園は横に広く、奥への池までは一本道が続いており、池の手前で二股に分かれて一周できるようになっていた。道の両側には梅の木がずらりと植えられている。芝生にはようやく立つようになった赤ん坊と母親がシートを広げて昼食をとっていた。平日なのでそれほど人はいないが、木陰や等間隔に設置されたベンチで心地よさそうに休んでいるお年寄りもいた。
「のどかですね」
「でしょう?日曜日だと芝生の上でバドミントンや、バレーボールをしている人たちもいますよ」
 尾上とみさとは時計回りに池を一周することにした。左の道を進む。
 池はお世辞にもきれいとは言えないが、数種類の水鳥たちが互いの縄張りを侵さないように、すいすいと水面を進んでいた。池を囲う、申し訳程度のアーチ状の柵をくぐって、土鳩が首を前後に振って歩いている。
「そういえば鳥に走るやついますよね」
「ダチョウとかそうですね」
「ダチョウじゃなくって、黒と白のこう……トゥルルルルッて感じで走る小鳥。恐ろしいほど人間に対して警戒心がない鳥で」
「ああ。ハクセキレイですかね」
 みさとは「ハ、ク、セ、キ、レ、イ」と言いながら、カバンから取り出したスマートフォンで検索した。
「そうそう、この鳥です」
「意外と縄張り意識が強くて、相手を追いかけ回すらしいですよ」
「追いかけ回すって……。飛んだらいいのにって思うことが結構あるんですよね」
「でもあの走っている姿、ちょっとかわいらしくないですか?」
「まあ、確かにそうですね」
 しばらく歩くと池のそばに一軒の小屋が見えてきた。その小屋の隣にはデッキが池の上に設置されていた。小屋の前を通るとき、尾上が簡単にみさとに説明した。
「ここ、ボートの受付場なんですよ」
「ボート?」
「ほら、ああいうの。恋人や家族連れが乗っていますよ」
 尾上が指さした方向を見ると、よく見る細長いボート、白鳥や恐竜の形をした足で漕ぐタイプのものが何艘も短い鎖で連結して、波に揺られていた。平日のためか今は利用している者はいない。
「あとそれは鯉の餌の自販機です。買います?」
「あ、いえ、いいです」
 子どもの頃なら食いついたかもしれないが大人になった今では鯉など珍しくもない。それにみさとの故郷は港町なので、もっといろんな種類の魚を見てきた。それこそ飽きるほどに。そのことをみさとは話した。
「近所の漁師のおじさんが商品にならないようなものを、よく分けてくれました。母の手にかかれば煮つけにフライ、刺身に焼き魚などのおいしい料理に大変身です。小さな頃から三枚落としなんかさせられてて……」
「そうなんですか。三枚落とし、というより魚捌けないんできないんですよね。
 あの辺でちょっと休みましょうか」
 ボート受付場を通り過ぎて、池の外周の真ん中くらいに来ると尾上はそう言った。経年で色あせたベンチに二人は座った。頭上には梅の木があり、池全体が見渡せた。水面が太陽の光に反射しきらきらと眩しいくらいだった。少し離れたところには、大学生くらいの男女が五人以上と、若くはない黒ヒョウの獣人が集まっていた。
「なんか裏が大型スーパーとは思えませんねえ」
 ベンチに深く腰掛けてみさとは言った。
「でしょう?ちょくちょく来るんですよ。いい気分転換になるんで」
 尾上も同じように座りそう言った。みさとは尾上を横目でちらりと見た。穏やかな眼差しで遠くを見ていた。そのときぱちりと互いの目が合った。
「どうされました?」
 尾上は小さく首を傾げた。どう答えようか迷っていたその一瞬、池のほうから「ぎゃーっ!」と太い悲鳴がした。二人ははじかれたように悲鳴をしたほうを見た。
「ちょっと先生、大丈夫ですかっ?」
「もう、また落ちたんですかー?」
 大学生たちは慣れた様子で先生と呼ばれた黒ヒョウの獣人を引き上げていた。先生は全身を濡らし、毛がぺったりと体に密着していた。 「いやあ、すみません」
「先生、集中するのはいいんですけど毎回のように、池や湖や用水路に落ちるのは勘弁してくださいよ……」
 そう言った男子生徒とは別の女子生徒が、トートバッグからバスタオルを取り出した。先生は「ありがとう」と受け取り、全身を乱暴に拭いた。
「見事に全身ずぶ濡れですね……」
 みさとは尾上に耳打ちした。尾上はこくんと一度頷いた。
「集中すると周りが見えなくなるタイプの人のようですね。私もよくあるんでわかります。
 大学生に先生って呼ばれているということは教授ですかね?」
「それか助教授ですかね。そこまで年齢も高くなさそうですし」
 きゃっきゃっと騒ぎながらも、先生が採取した水を持って説明をし始めると静かに話を聞き始めた。
「理系ですかね?」
「おそらく。文系はあんな風に外に出て授業って経験上ありませんでしたから」
 みさとは尾上の疑問にそう答えた。みさとは大学生たちが眩しく見え、目を細めた。そんなみさとに尾上は訊ねた。
「唐藤さまもあんな日々があったんですか?」
「んー、あそこまでアクティブではありませんでしたね。文系だったんで、教室で先生たちが話していること、必死にノートにとってましたねえ。ちゃんと出席して、カード記入して……」
「カード?」
「ええ。私が通っていた大学では出席カードっていうのがあって、出席番号みたいなものと、先生が指定した内容の答えだったり、感想なんかを記入しなくちゃ出席と認めてくれなかったんです」
「へえ。今の大学生は忙しいんですねえ。私の周りで大学に通っていた人は、授業をサボって麻雀をしたりしていたそうですから。割と自由だったみたいです」
「え、なんですかそれ。羨ましい」
 みさとはふと気になったので、聞いてみることにした。
「尾上さんはどうだったんですか?」
「私ですか?」
 尾上は自身の鼻先を指さした。みさとは首を縦に振った。尾上は腕を組んで、若い頃のことを思い出しながら話した。
「専門学校でしたからねえ。うーん……実技のほうが多くてダメ出しが多かったですよ。皆卒業したら働く気満々だったから、割と真剣でしたね。ああ、でもサボる人はサボってたなあ」
「いつの世も一緒ですね」
「そうですね。まあ、人類は古代エジプト時代から『近頃の若者は』的なことを言っていたそうですから」
「うわあ。じゃあもうDNAレベルですね。気にしないでおこうっと」
 会話が途切れると尾上は「そろそろ行きますか?」とみさとに訊ねた。みさとが首を縦に振った。二人は立ち上がり、残り半周を歩いた。さっきの大学生一行は、先生の講義を終えたのかぞろぞろとみさとたちと反対側から移動していた。
「終わったみたいですね、大学生たち」
「それかほかの場所に移動して、比較でもするのかもしれませんね。水を採取していましたから、水質か生物かそれとも別のものかを」
「なるほど」
 みさとは尾上が微笑んで自分を見ていることに気がついた。
「えっと、顔になんかついてます?私」
「いいえ。……大丈夫ですよ」
 みさとはその大丈夫という言葉の意味に別のものも含まれているような気がした。みさとは尾上をきちんと見て頷いた。
「はい。ありがとうございます」
 二人は肩を並べて公園から出た。
 数日後、思わぬ再会をすることをみさとはまだ知らなかった。