悲しみは純白 07

第7話

 尾上と公園を散歩した日から一週間経った。あれからも引き続き複数の会社に履歴書を送った。転職サイトにもエントリーシートを書いたが、どこからもいい返事はもらえなかった。
「うう……。大学の就活を思い出す……。まさかもう一度同じ目に遭う日が来るとは」
 自室にいるみさとはベッドに倒れこんだ。みさとが大学を卒業した年は、就職氷河期とも呼ばれて就職率は過去最低だった。みさとも腱鞘炎になるほど履歴書、エントリーシートを記入した。靴擦れした痕は触ると今も硬い。同じゼミだった友人の中には文房具店や百均で履歴書を見ると吐き気がする者もいるらしい。
「このあいだの大学生たち、多分ゼミの授業だったんだろうなあ。あの人数だと。仲のよさそうなゼミだったなあ。うちと大違い」
 みさとが所属していたゼミは、個人主義者が多くあまり飲み会なども開かれず、授業で顔を合わす程度の仲だった。二、三人ほどつるんでいる男女グループが一組あったが、今も連絡をとり合っているのかはわからない。原因は不明だがどうやらずいぶんと揉めたらしい、とだけ聞いていた。
「とにかく、どこでもいいから就職しないと……」
 散歩した日、尾上が大丈夫だと慰めてくれたものの、みさとは焦っていた。しかし焦って就職した結果、そこがブラック企業で体を壊したというゼミの先輩の話をみさとは聞いたことがあった。だからこそどうすればいいのか、みさと自身でもわからなくなっていた。
「フルタイムから始めたほうがいいのかな?でも正社員じゃないと生活は厳しい。短期バイトばっかりだと根気がないって思われるし……」
 みさとは枕に顔を埋めた。息苦しくなって顔を上げる。
「あーもー、いいやっ。考えないでおこうっと。なんか気分変えないと」
 みさとはちらりと尾上の部屋のほうを見た。仕事は休みだそうだが、朝食を食べてからずっと部屋に籠っている。今は十一時四十分なのでかれこれ三時間半ほど経つ。
「尾上さん、最近気い張ってるなあ」
 この数日尾上はやつれた顔で帰ってくる上に、食事をしているときですら難しい顔をしているのだ。いつもならひとりで起きてくるのに、このところはみさとが起こしに行っていた。昨日は机に突っ伏していたのか頬の毛はぺたりと皮膚にはりつき、消しかすがついてしまっていた。そのときの「うわっ」と言いながら消しかすを払っていた尾上の姿は、大型犬がかゆいところを掻いている姿になんとなく似ていた。
 みさとは本を閉じて昼食の準備にとりかかった。冷蔵庫の野菜室からピーマン、ニンジン、玉ねぎを、チルド室からは鶏もも肉を出した。野菜をみじん切りに、鶏もも肉を一口大の半分ほどの大きさに切り、塩コショウとケチャップを一緒に炒めた。昨日炊いたご飯を投入し同じように味付けをしたケチャップライスは一度脇に置いた。別のフライパンで焼いた卵にケチャップライスを卵に乗せ端から寄せて丸める。
「ほっ」
 掛け声とともにひっくり返されたオムライスは、フライパンに卵の中央が張り付いてぐちゃぐちゃになってしまった。
「……うん、これは私のやつにしよう」
 二回目はフライパンもなじんだためかうまくいった。昼食の用意を終えたみさとは尾上の部屋のドアを遠慮がちにノックした。
「尾上さん、お昼ご飯ですよ」
「ああ。あとで食べるので、置いといてください」
 いつもより低く抑揚のない声。みさとは「わかりました」と言ってひとりで昼食をとった。尾上の分はラップをした。
「まあ、半熟だからいっか」
 予定よりも形が悪くなったオムライスを食べながら自評した。インスタントのコンソメスープも飲み昼食を終えた。  ラップがかけられたオムライスは初め水滴がついていたが、時間が経つとそれも温度とともになくなった。尾上の部屋からは時折「くそっ」や「ああああ……」と苦悶の声が聞こえた。
「うーん、こういうときってどうしたほうがいいんだろう……」
 みさとは食器を洗いながらつぶやいた。皿についたケチャップと混ざり泡がピンク色になる。
「あ、そういえば履歴書なくなったんだった。買ってこなくちゃ」
 洗い物を終えたみさとは尾上に一言声をかけようと部屋の前に来た。ノックしかけたが脳裏に尾上の顔が浮かんだ。げっそりとした、毛先に消しゴムのかすがついた姿。追い込まれているのは目に見えてわかる。みさとは手を下ろして置き手紙だけして買い物に出かけた。

 大型スーパーの文具コーナーで十枚入りの履歴書を2パック購入し、みさとはそのまま食品コーナーに向かった。冷蔵庫にあったものを思い出しながらお買い得品を見て回る。
「尾上さん忙しそうだし、ぱっと食べられるもののほうがいいよなあ……。かつ元気になれて……カツサンド? いやいやいくらなんでもワンパターンすぎる……」
 自分独りならパック詰めされた総菜だけでもいい。しかし居候という立場がそれをためらわせた。結局何周もして頭に浮かんだのはカレーやハッシュドビーフだった。シチューやビーフシチューもみさとの頭の中にある会議室では賛成する者がいなかった。
「……尾上さん、そういえばヨーグルト嫌いって言ってたな。匂いがだめだったはずだけど、カレーは大丈夫なの? っていうか尾上さんの好きな食べものってなに? 」
 思い返せば尾上はみさとの作る料理を残したことはなかった。それに尾上は仕事が休みのときには家事を率先して行なってくれて、みさとを休ませようとしてくれる。
「まったく、尾上さんの元婚約者は大きな魚を逃したもんね。あーあー、もったいない」
 みさとは牛肉のばら肉を手にとり、かごに入れながらつぶやいた。

 ハッシュドビーフを作るとき、みさとはいつも市販のルーを使う。実家もそうだったのでなんとも思っていなかった。しかし元婚約者の実家は違った。カレーもシチューもハッシュドビーフもルーを使わなかったらしい。そんなことをみさとはふと思い出した。
「市販ルーのなにが悪い。メーカー様がうんうん唸りながら開発してくださったものなんだから逆に感謝して使うべきよっ」
 そう言いながらみさとは鍋の中にハッシュドビーフの固形ルーを割り入れた。すると炊飯器がピーッピーッと鳴った。あとは鍋の中のルーが溶けきれば夕食は完成だ。みさとは深めの皿に炊き立てのご飯を盛ってハッシュドビーフをかけた。なにもかかっていないご飯側にブロッコリーとミニトマトを添えた。ラップをしてトレイにスプーンとフォーク、湯気の昇るハッシュドビーフを乗せて尾上の部屋まで運んだ。コンコンッと遠慮がちにノックした。すると中から尾上の声がした。
「はい。なんでしょう」
「あの、夕飯を作ったんで持ってきました。おなかすいたときに食べてください。ドアの前に置いておきますね」
「ありがとうございます」
 みさとはトレイを置いてリビングに戻った。そして自分の分を盛りつける。スプーンでハッシュドビーフを口に運ぼうとしたが、はたと思い動きが止まった。
「しまった……食べてるときに飛んだらシミになっちゃうじゃん。商品だめになっちゃうじゃんっ。……あーあー、いっつもつめが甘いっていうか」
 みさとはテーブルに突っ伏した。
「……こういうところがだめだったのかな」
 頭に浮かんだのは真っ白なウエディングドレスだった。式の煌びやかさや新婚旅行より自分だけのウエディングドレスがほしかった。間違いなく花嫁だったという証が。
「……白なんてこの世からなくなればいいのに」
 ぽつりとこぼれた言葉を慌てて体の中に戻すように、みさとはハッシュドビーフを流し込んだ。

 作業が一段落したころには尾上の部屋の前に置かれた夕食は、ラップに水滴が張り付いて温度もずいぶん下がっていた。それでもなんとかほろぬくいくらいだったので、尾上は温め直さずそのまま食べ始めた。もちろん作業用の机から離れる。
「おいしい」
 尾上はぺろりと平らげた。
「そういえば前まではグラノーラバーとかそんなんだったな」
 尾上は食べ終えた皿を見つめた。みさとの作る食事はどれもおいしく、温かかった。尾上はみさとの元婚約者の顔を思い出した。
「あの男性、逃がした魚は大きいな」
 自身がどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべていたことを尾上は気づいていなかった。