母と呼ばない青年

 目の前には籐のかご。その中に入っていたのは果物でもパンでもない。マシュマロのように弾力がありそうで、頬をほんのり赤く染めた赤ん坊だった。金色の髪はまだ細い。
「えっ! こ、これどういうこと……? 」
 りんかは両膝をつき、恐る恐る赤ん坊の顔をつついた。耳の裏にひっかけていた少し青みがかった緑色の髪がさらりとこぼれた。赤ん坊を包んでいる真っ白な布の上に一枚の紙が折りたたまれているのを見つけた。
「うーんと……『どうかこの子をよろしくおねがいします。男の子です』って、名前は? 」
 見る限り布には名前が刺繍されていないようだ。ネックレスなどの小物も身につけさせていない。
「とにかく連れて帰らなくっちゃ」
 りんかは自分の荷物である、鉱物が入ったかばんと赤ん坊を抱えて家路を急いだ。

 りんかは赤ん坊を拾った山のふもとにある、きらり村に住んでいる。魔力をこめて道具などをつくる、ものをつくる魔女と呼ばれる存在だ。彼女は鉱物を使ってアクセサリーからお守り、ランプまで幅広く作っていて、オーダーメイドも請けている。村だけでなく評判を聞いて遠くからもお客さんが来る。丸太の家にレンガのえんとつ。色とりどりの花やハーブが植えられている庭。一人で住むには少々広い二階建て。木でできた『りんかの魔法工房』という看板が目印だ。
「この子の名前って勝手につけていいもんなの? でも名前がないと不便だもんなあ」
 二階の寝室のベッドに赤ん坊を寝かせたまま腕を組んで悩んでいると、玄関から「りんかちゃーん、いるかーい? 」とはきはきとしや女性の声がした。常連さんの八百屋さんのおばさんだ。りんかは赤ん坊を起こさないように忍び足で店のほうへ出た。
「ああ、よかったいてくれて。姪っ子の誕生日プレゼントに……」
「ねえおばさん。赤ちゃんってどうやって世話するの? 」
「へっ? 」
 言葉を遮られた八百屋のおばさんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
 りんかは八百屋のおばさんに事情を話した。
「……って、りんかちゃんが育てる気なのかい? 」
「え、そうだけど。アタシが拾ったし」
 なにを当然のことを、といった顔をしているりんかに、八百屋のおばさんは赤ん坊を見てから自分の経験を元にアドバイスをした。赤ん坊は生後四か月から六か月ほど。まだ乳離れはしていないであろうこと。ミルクの作り方に温度、飲んだ後しなければいけないこと。おしめの変え方などなど。
 八百屋のおばさんは多くのことをりんかに教え、ミルクまで買ってきてくれた。
 八百屋のおばさんが帰ると、りんかが腕を組んで赤ん坊を見下ろしていた。ほどなくして眠っていた赤ん坊が小さくゆがみ、耳をふさぎたくなるくらいの大声で泣き始めた。
「うおおっ早速! やっぱりおなか空いてんのかな? 」
 元気な泣き声でりんかの慌ただしい日々が始まった。

 年月は過ごしているときにはゆっくりと、思い返してみればあっという間に流れたのだった。赤ん坊はラスと名付けた。ラピスラズリのような瞳だからでもあるが、石の意味である災いを退け幸運をもたらされるような人生を送ってほしい、という願いもこめた。
 りんかがミルクを飲み終わったラスにゲップをさせるのを忘れ、吐いてしまったことがあった。
 最初は時間がかかったおしめの交換も、予想していたより早く慣れた。
 掴まり立ちや歩いたときには感動と喜びで胸がいっぱいになった。初めて喋った言葉は「いらっしゃいませ」だった。りんかがお客さんが来るたびに言っていたせいだろう。
 離乳食の作り方も八百屋のおばさんに教えてもらった。そして少しずつりんかと同じようなものを口にするようになった。
 ラスは買い物のときも、山に材料の鉱物を拾いに行くときもりんかについて行った。
 そんなラスは少年へ、少年から青年へと成長した。十七歳にもなると身長が百八十センチを超えた。筋肉質な体で、鋭く青色の目。一見すると近寄りがたい雰囲気がある。しかし実際は子供の相手をしてやったり、動物によく懐かれる青年となった。
 三十代半ばとなり大人になったりんかは、その日も作業場で魔法の研磨機で鉱物を磨いていた。回転するやすりは虹色の光に覆われていて、鉱物を押し付けると小さな星が弾けるように現れすぐに消えた。りんかの魔力が鉱物にこめられていく。虹色の光がいくつも美しい姿になりつつある鉱物に集まった。魔力もこめ終わり目当ての鉱物のみを取り出したタイミングで声をかけられた。
「姉さん」
 低いけれどりんかにとっては柔らかい声色。聞きなれた声だ。
「あ、ラス。おかえりなさい。もしかしてずいぶん待たせちゃった?」
 ラスは首を横に振った。
「姉さんの作業、見てておもしろいから」
「そっか。それならよかった」
 りんかは腰を上げた。壁にもたれて立っていたラスも動き出した。二人とも部屋の中央にある木製のテーブルに近づいた。ラスは肩から下げていた革製のカバンをテーブルの上に置いた。カバンの中から出てきたのは岩や石から顔を出していた鉱物だった。ワインのように深い赤、夜空のような青。飴玉のような黄色に、日に当たった葉のような鮮やかな緑。小さいものは小指のつめほど、大きなものは指の関節二つ分ほどあった。
「わあ、どれも質がいい。さすがだね」
 以前はりんか自身が材料である鉱物を山で調達していたが、今ではラスに任せている。おかげでりんかは作業に集中できるようになった。
「姉さんの教えがいいから。なに作ってるの? 」
「フローライトのランプ。このあいだ売れたでしょ? だから追加分を作っておこうと思ってね」
 ものをつくる魔女が手掛けたフローライトのランプは暗闇を照らすだけでなく、旅人への加護も込められている。そのため人気商品なのだ。
 りんかは表面が滑らかになった八面体をラスに見せた。大きさは親指ほど。緑色と紫色が美しいグラデーションを描いている。
「これで何個目? 」
「まだ二個目」
「これだけ大きかったら十分ランプになりそうな気はするけど」
 ラスは磨いたフローライトを光にかざしながら言った。りんかは首を横に振った。
「フローライトの光は弱いからいくつもいるんだよー」
「ふうん」
 ラスは磨いたフローライトをりんかに返した。
「どうせずっと作業しててなにも食べてないんでしょ。今から作るけど食べたいものある? 」
 りんかは表情を明るくして「オムライスっ」と答えた。ラスはじっとりんかを見つめたあと満足するまで頭を撫でた。撫でられたりんか本人は子ども扱いをされたと感じたのか不本意そうだった。
「姉さん。そういう顔、俺以外に見せないでね」
「え、どんな間抜け面してた?」
 りんかは顔をぺたぺたと触り始めた。そんな育ての母を見てラスはふっと笑いをこぼした。
「宝石なんかよりも輝いて世界で一番かわいい笑顔、だよ」
 キッチンに向かうラスが小さく紡いだその言葉は、困惑して顔を触り続けているりんかには聞こえていなかった。ラスもそれはわかっていた。

 ピーマンや人参などの材料を刻みながらラスはぽつりと呟いた。
「きっと姉さんは、俺がなんで母さんじゃなくって姉さんって呼ぶのかわかってないんだろうな」
 ラスは苦笑いした。本来ならりんかのことを母と呼ぶのは不自然なことではない。しかしラスは決してそうしないと決めていた。
「母さんって呼んだら親子になっちゃうから、結婚できなくなっちゃうしなあ」
 ラスはりんかの笑顔を思い浮かべながらオムライス作りを続けた。そんなりんかが手鏡を見つめながら「そんなに間抜けだったか……」といろんな表情を練習していることなど知らずに。