ガラスと少女 03

第3話

 さらはショックを受けていた。追いだされたことより、店長に拒絶されたことのほうが辛かった。本当はまた来れば店長にキスしてもらえるのではないか、と期待していたのだ。しかし実際は違った。むしろ真反対のことをされた。
「店長さん……」
 切なそうにさらは呟いた。一枚の扉がこんなにも厚く、二人の距離が遠く感じたことはない。開ければ店の中に入ることはできるが、店長と話すことはできないだろう。
「もう、会えないの……?」
 言葉にした途端、さらの目から洪水のように涙が溢れ出た。手の甲で拭いても拭いても止まらない。嗚咽する声が漏れる。上を向いても涙が流れてしまう。涙の止め方がわからないさらは、周りの人の視線など気にせずその場で泣き続けた。

 ひとしきりわんわん泣いて気分が少し落ち着くと、さらはようやく家に帰る余裕が出てきた。それでもやはりぽろぽろと涙が出る。そんな涙を拭きながら帰路に着く。そのときにも頭の中で店長の低い声が繰り返された。もう会えないのかと思うと再び大きな悲しみが波のように押し寄せてきた。しかし泣き叫ぶ元気も残っていない。量は減っても流れる涙を拭うことしか、今のさらには出来なかった。
 家に帰ってくると、ただいまも言わずに自分の部屋に上がった。階段の途中で「さら、帰ったの?」とお母さんの声がした気もするけれど、反応する元気はなかった。そんな娘の背中をお母さんは心配そうに見ていた。
 さらはベッドの上に倒れこんだ。電気はつける気になれなかった。窓からは外灯の光がうっすらと入りこんでいる。いつもはなにも思わない光がずいぶんと明るく思えた。学習机の隣にはコートハンガーがあり、さらにその隣には四段の収納棚がある。そこには今まで買ったガラス細工や陶器で出来た動物を飾っている。その中にはフィーユで買ったものもある。それを見て、さらの悲しみは一層強くなった。このまま涙で周囲が洪水になってしまうのではないか、というくらい泣いた。そして気がつかないうちに泣き疲れて寝てしまった。
 さらはお母さんの声で目が覚めた。
「さら、遅れるわよ。もうっ、パジャマにも着替えないで」
 むくりと起き上がると、経験したことがないくらい目が開きにくい。泣きすぎて腫れてしまったのだ。そんなさらを見てお母さんは驚いて「やだっ目が腫れているじゃない」と優しく目元を撫でた。お母さんは昨日のさらの様子がおかしかったので、なにかあったことは予想していた。
「とにかく冷やしましょう。着替えて下りてらっしゃい」
 そう言って扉を閉めるとお母さんの足音が遠くなった。さらは泣きすぎたせいで起こった頭痛と戦いながら、なんとか着替え始めた。心と体がだるい。店長のことを思い出すと、またじわりと涙が浮かんでしまう。それでもさらは乱暴に涙を拭いて一階に下りた。
 リビングでは朝ごはんが湯気を立てながらさらを待っていた。お母さんが保冷剤をタオルハンカチで包んで渡してくれた。保冷剤を目に当てながら朝ごはんを食べはじめる。
「どうしたの?そんなに腫れるまで泣くなんて……」
 お母さんは心配そうに訊ねた。しかしさらは店長とのことは話さなかった。朝ごはんもさらの大好物の半熟ベーコンエッグだったのにも関わらず、二口三口しか口をつけなかった。トーストにはさらの食べあとが一つだけ残っている。
「お母さん、学校行きたくない」
 さらがそんなことを言ったのは初めてだったので、お母さんは少し驚いた。一瞬いじめという言葉が浮かんだ。しかし毎日のように学校や友達のことを話していた。お母さんは冷静になるように自分に言い聞かせ、様子を見ることにした。
「とりあえず今日は行ってみたら?帰って一息ついてから、お話しましょう?」
 お母さんは優しく微笑んだ。それを見てさらは小さく頷いた。この苦しみや悲しみを外に吐き出せるという安心感から、今日一日は頑張って学校に行くことにした。
 しかし、その日学校でのさらは元気がなく友達からたくさん心配された。

 学校から帰ってもさらは友達も遊びもせず、ベッドに横になっていた。とてもそんな気分になれなかったのだ。いつもは放課後に一輪車や鬼ごっこ、ゲームなどをしているような時間だ。
「店長さん……」
 静かに呟いたつもりだったが、声は部屋に響いた。まだじわりと涙が出てくる。さらはふと、一生分の涙が流れているかもしれないと思った。そのときコンコンッと扉をノックする音がした。扉の向こうからお母さんの声がした。
「さら、入るわよ?」
 さらは顔を枕に押しつけたまま返事をしなかった。お母さんはいつものように入ってきた。
「ココア淹れたけど飲む?」
 夏の暑い部屋にも関わらず、お母さんはホットココアを持ってきた。さらはむくりと起き上がり、ココアの入ったマグカップを受けとった。いつもなら見るだけで暑くなりそうな湯気が、今は一生懸命心を温めようとしてくれているように感じた。ふーふーと冷ましながらひと口飲む。夏に関わらずそのぬくもりが染みわたっていく。
「落ち着いた?」
 さらはこくんと小さく頷いた。お母さんもココアに口をつける。しばらくさらもお母さんも何も言わなかった。先に口を開いたのはお母さんだった。
「最近元気がないみたいだけれど、どうかしたの?友達とけんかでもした?」
 さらは首を横に振った。なかなか口を開かない娘に、お母さんの中でいじめられているのでは、という不安が大きくなっていく。恐る恐る訊ねてみる。
「もしかして……いじめられているの?」
「ううん、そうじゃないの」
 さらは慌てて否定した。しかしすぐに顔を落とした。お母さんは変わらず心配そうに見つめている。
 さらはもうどうすればいいのかわからなかった。涙も流れきり頭がぼうっとする。気がつくとさらは、お母さんの肩にもたれかかり相談していた。
「ねえお母さん。どうやったら好きって気持ちは消えるの?」
「え?」
「わたしね……好きって言ったのに、信じてもらえてないの。初めて会ったときからずっと好きだったのに。どうやったら……伝わるかな?」
 お母さんはさらの元気がないのは恋煩いだとわかると、ほっとして娘の肩を優しく抱いた。小さな頭に自分の頭をくっつける。まるで冷えて傷ついた心を、温めて癒すかのように寄り添う。
「好きっていう気持ちを消す必要なんてないわ。あのね、誰かのことを思うっていうことは大切なのよ。自分以外の人を認めることも、一緒に歩むこともすごく大変で難しいことだけど、さらの心を豊かにしてくれる。人生を鮮やかに彩ってくれる。だから、消すことはないわ」
 さらの頭を撫でながらお母さんは続けた。
「好きってことが信じてもらえないのなら……時間をかけましょう。きっとさらの好きって気持ちが意外だったのよ。だから今すぐにってわけじゃなくって、ゆっくり伝えていけばいいんじゃない?」
 お母さんはさらの好きな人が十歳以上も年上だとは思いもせず、アドバイスをした。けれどさらは、なぜか納得できなかった。心がもやもやする。
「……さらは、その人に真正面から好きって言ったの?思いはすべて伝えた?」
「え……?」
「ぽろっと流れで言うだけじゃだめよ。もちろん流れも大切だけど、ちゃんと向き合って準備をして行くの。戦場に乗りこむ気で行きなさい。作戦もしっかり立てて、ね」
 お母さんはぽんぽんっと、さらの頭を撫でて「飲み終わったらコップ持ってきてね」と言って部屋を去った。
「そっか……あたし、ちゃんと告白できてなかったんだ。なんで好きなのかとか、いつ好きになったのかとか……全部言ってなかったんだ」
 大きなしこりがとれたようにさらはすっきりした。すると沈んでいた気持ちも自然と上がってきた。さらは残ったココアをぐいっと飲み干した。
「あたしは店長さんのことが本当に好きなんだもん。そんなに簡単に諦めたりしないんだから!」
 さらは吹っ切れた笑顔を浮かべ、誰もいない部屋で宣言した。

 さらがポジティブになったそのころ。英二は部屋のベッドで寝転がっていた。最近ガラス細工の製作だけでなく、デザインもいいアイディアが出ない。それどころかなにもやる気が起きないのだ。頭に浮かぶのはガラス細工のことではなく、さらの笑顔や彼女と過ごした日々、あの唇の感触だけだった。そしてあることに気がついたのだ。
「俺……さらちゃんの笑顔が見たいから、いろいろ作っていたのか」
 もちろんガラス細工そのものは今でも好きだ。この仕事を辞めることなどできない。もしそんなことをすれば、一生後悔するだろう。それでも新作を見つけたときのさらの笑顔は、どんなガラス細工よりもきらきらと輝いていて春の日差しよりも温かかった。
「ああーっ!早く切り替えないとまずいよなああ」
 このままでは品ぞろえが悪くなって、客足が遠のくのは目に見えていた。だがさらのことを忘れようとすればするほど、脳裏に焼きついていった。触れたい欲求も強くなる。英二は経験上、時間が解決してくれることを知っていた。それでも忘れるまでのあいだはなかなか辛い。
「さらちゃん……ごめんな」
 ファーストキスを奪ってしまったことと、冷たくしたこと、店の出入りを禁じたことなどすべてに謝りながら、知らぬ間に眠ってしまった。

 スマートフォンのアラームで目を覚ました英二は、むっくりと起き上がった。ぼさぼさの頭を掻きながらカーテンを開ける。涼しいとはいかないまでも、暑くなる前のさわやかな朝日だった。つい昨日まで眩しすぎて嫌になるくらいだったが、今日はなぜか優しく感じる。
「……そうだよな。もう会わないんなら、せめてあの子が喜びそうなものを作って過ごせばいいか。そして……いつかさらちゃんに心から好きな人ができて、その男の隣で笑っていたら俺の好きなデザインを作ればいいか」
 英二はさらに言いたかったことがたくさんあった。ガラス細工が大好きな、笑顔のかわいい少女に対する気持ちも本物であると気づくことができた。それだけで十分だ。
「隣にいることができないのならば、せめて遠くから幸せになる姿を見守ろう」
 そんな英二の気持ちを応援するように太陽は輝いていた。