第1話

 ガラス細工の魅力にとりつかれたのは、小学校一年生の冬だった。実家から電車で三十分のところにある、大きな神社で祭りがあった。毎年両親と姉といっしょにお参りして、その帰りに屋台の列を見て回っていた。あの辺りで冬の祭りがあったのは、石本英二の知る限りそこしかなかった。駅までの大通りや脇道に広がるように並んでいたその中に、毎年一軒だけ変わった屋台があった。それがガラス細工の屋台だった。
 白いペンキが塗られて使い古された木の台に、小さな動物や女の子、りんごの生った大きな木、龍などさまざまなガラス細工が並べられていた。透明で宝石とは違った輝きと細かい作りに、英二は心を奪われた。
 それがきっかけとなり英二は現在ガラス細工の職人を生業としている。小さいけれど自分の店を持つことができた。白い少しごつごつした壁でイタリアかギリシャの島にありそうなデザインで、一見カフェのようにも思える。ドアの上には『フィーユ』と店名が青いペンキで書かれている。窓から覗くとちょこんと並んでいるガラス細工が見えるように配置している。
 馴染みの客も少しずつ増えてきた。接客、販売、製作などすべて一人なので忙しいが楽しくもある。客がいないときはレジのすぐ隣の作業場でガラス細工を作っている。量も多くは作れない。そのため自分の作品だけでなく、知り合いが作ったアクセサリーやステンドグラス、フットランプも置いている。
 チリリーンとドアベルのきれいな音が鳴った。英二は作業の手を止めて、顔を上げた。
「いらっしゃいませ、さらちゃん」
「えへへ、こんにちは」
 常連客のひとり、森沢さらだ。小学四年生らしい。ガラス細工がほんとうに好きらしく、毎日のように店にくる。少ないおこづかいで買いに来たときは一時間以上かけて選ぶほどだ。そんな小さなお客さんにときどきお茶を出すなど、少し特別扱いしてしまう自分を甘いと思っている。
「今日はなにを作ってるの?」
 さらは売り場から作業台を覗きこんだ。それは人魚姫だった。透き通った青い魚のような下半身と人間の上半身をくっつけたところだ。
「このあいだお客さんが多かったからね。これから本格的に夏になるし、海のものが売れたんだ」
 そう説明して英二は作業を再開した。ガスバーナーで飴のようにとけるガラスを操り、顔ができて金髪のおだんごのかわいい人魚となった。冷ますために砂を入れた専用のケースに完成した人魚を置いた。ケースの中には、ほかにもくじらやイルカが何匹か泳いでいた。海藻もある。まるで一つの世界だ。
 さらも来たので英二は少し休憩することにした。奥からさら専用になりつつある丸椅子とオレンジジュース、インスタントコーヒーを持ってきた。さらはオレンジジュースを受けとり作業場の前に座った。
「さらちゃんはもうすぐ夏休み?」
「うん。今日お道具箱持って帰ったよ」
「そうかあ。懐かしいなあ、道具箱って」
 英二とさらは雑談をした。さらが学校であったおもしろい話や勉強のことなど一通り話して、英二はさらにちょっとした相談をした。
「ねえさらちゃん。秋に出すガラス細工なんだけれど、どんなものならほしいと思う?もちろん動物や十月になったらハロウィンのものは出すけど」
 さらは少し大人を意識したように腕を組んで考えた。
「あのね、ぶどうの木はほしい。去年おこづかいが足りなくって買えなかったの」
「そっか。じゃあぶどうの木と……あと秋といえばなんだ?食欲の秋?あれ、運動の秋ってあったっけ?」
「あとは読書の秋もあるよ」
 英二はそれを聞いてピンときた。昔話もしくは童話をテーマにするのだ。それを聞いたさらは「きっとかわいいよ」と目を輝かせていた。英二はメモ用紙を作業台の引き出しから取り出し、さっそく候補を挙げ始めた。
「ええっと……白雪姫に赤ずきん、あとは……不思議の国のアリスとか?あ、でもあれって昔話にしていいのか?」
「あとは眠り姫とかブレーメンの音楽隊もあるよ。三匹の子ブタとか」
「さらちゃんよく知っているなあ」
 英二が褒めると、さらは嬉しさを隠そうとしたけれどできずにはにかんだ。
 ときどき来る客の相手をしながら候補を挙げていると、五時を知らせるアナウンスが町に響いた。よくある「よい子はお家に帰りましょう」というものだ。
「もうそんな時間か。ほら、さらちゃんもそろそろ帰りな」
「えー。だってまだどれを作るか決まってないよー」
「秋まで楽しみにしてなさい。ほら帰りな。
 ああ、そうだ。明日は店休みにするからね。それに天気悪いらしいし」
 さらは首を縦に振った。この店は不定休で英二の気分で休みが決まる。さらは後ろ髪を引かれる思いで家に帰った。英二はにっこり笑みを浮かべてそれを見送った。そして閉店時間まで作業をしてその日は家に帰った。
 決して広くはないアパートの部屋で英二は秋の新作に向けて案を練ることにした。さらと考えた候補の中からどれを作ろうかと考えていると、ふと昼間のさらのはにかんだ顔を思い出した。そういう年頃なのかさらは大人っぽく振舞おうとするのだ。さらの笑顔は春の日差しのように温かく、花のように愛らしい。
「素直に嬉しがったらいいのに」
 さらは最近特におませさんなのだ。それを本人に伝えると「子ども扱いしないでよっ」と怒られた。
「あ。いかんいかん、集中しなくちゃな」
 雑念を払うように頭を振って秋の新作ガラスの構想を練った。



 次の日。携帯のアラームが七時を知らせる。いつもなら朝日を注ぎこむ窓には曇天が広がっていた。むくりと起きて朝ごはんの準備をしながら英二は天気予報を見ていた。日本地図が映っている画面からは「今日は全国で非常に強い雨と風に注意が必要です」と忠告が聞こえた。雨が降らない内に英二は店に向かうことにした。材料や道具の置き場所の関係で、作業は店でしかできないのだ。
「今日は早目に仕事を終わらせて帰ってこよう。ああ……洗濯もの干したかったのに」
 朝ごはんを食べ終わり、自転車にまたがって店へと走った。すでに向かい風でこぎにくい。街路樹もしなっていた。本格的に天気が荒れそうだ。
 店に着いて三十分もすると、天が破れたかのような大雨が降ってきた。ざああっと大きな音をたて、近年稀にみる大雨だ。雨は洗車しているように窓ガラスを滑る。英二は店に来たことを後悔した。
「雨が小ぶりになったら絶対に帰る」
 誰に言うわけでもなく、しかし力強く英二は呟いた。それまでは台座やオルゴールにガラス細工をくっつける作業を始めた。セットされたガラス細工を買うお客は珍しくない。オルゴールも贈り物に人気だ。店は休みでも英二に休みはない。それでも自分の好きなことができるのは幸せだ。
 接着剤や台座など材料を用意して、配置を細かく変えながら英二は接着作業に入った。


 ざあああっという大きな雨音でさらは目を覚ました。眠い目をごしごしとこすりながら、一階のリビングに下りた。お母さんが天気予報を見ていた。
「おはよう」
「さら、おはよう。今日は大雨警報が出ているみたいよ。お昼ご飯は冷蔵庫に入れておくからね」
 さらが通っている小学校は、午前十時までに警報が解除されなければ休みになる。だからみんなそれまで天気予報にかじりつくのだ。けれどこれだけひどい雨ならば、十時までに警報が解除される可能性は低いだろう。お母さんはさらに朝食を作って家事をすべて終わらせると、大雨の中仕事に行った。
「こんなときでもお仕事なんて、大人は大変なんだなあ」
さらはそう呟いて、念のため十時までテレビをつけておくことにした。ソファーに寝転がってクッションに頭を乗せた。普段は見ることができない昔のアニメの再放送が終わると、チャンネルを変えて情報バラエティー番組にした。しかし内容は右から左へと流れるばかりだった。テレビの右側に地域と警報の内容が表示されているからだけではない。
 理由はガラス細工の店長のことだ。さらはガラス細工が好きだ。しかしこの辺りにガラス細工のお店はないので、縁日の屋台くらいしか買えなかったのだが去年も一昨年もなかった。なのでさらは迷わずフィーユに入った。中には今までに見たことがないガラス細工の数と種類があった。目を輝かせていると「いらっしゃいませ」と声をかけられた。それが店長だったのだ。ガラス細工を陳列しているところだった。輝くガラス細工に夢中になっていたさらは声に驚き躓いたのだ。そんなさらの元に駆けつけ、抱きしめるように受け止めたのが店長だった。見上げると穏やかでさわやかな笑顔。さらを支える大きな手。そんな手から生み出される美しいガラス細工。転びそうな子どもを受け止めるようなやさしいところをさらは好きになってしまった。あのときの柔らかい笑顔を思い出すと鼓動が速くなり顔が熱くなる。まさに恋だ。クッションに顔を押し付け、両足をばたつかせた。
「店長さん、彼女とかいるのかな……。大人だからいるよねえ?いやいやいや、まだわからないじゃん!でも……聞くのこわいなあ」
 いるかどうかわからない彼女を想像して、さらは胸がずきりと痛くなった。
「今頃店長さんなにしてるのかなあ……」
 寝転びながら考えているとだんだん瞼が重くなってきた。さらはいつの間にか眠ってしまった。
 目が覚めると十一時だった。確認してみると警報は解除されていない。今日は休みになった。さらは安心して二階の自分の部屋に戻った。今日はガラス細工を並べて遊ぶことにした。棚からガラス細工を取り出し、動物や花などを並べていると自然とストーリーができあがる。ときどき位置やガラス細工を変えて眺めている時間はとても幸せだった。そんな風に過ごしているとあっという間に十二時前になっていた。昼ごはんを食べることにした。
 リビングに下りて冷蔵庫を覗いた。オムライスだった。電子レンジで温めて食べながら窓の外を見た。雨は強いけれど風はやんだ。合羽を着れば外に出られなくもない。
「そうだ!これ食べ終わったらお店に行ってこよう。いつもより長く店長さんといられるもんっ」
 さらは急いでオムライスを食べ終えた。閉めるから店に来るな、と言われたことも忘れて出かける準備をして雨の中フィーユへと向かった。



 朝よりも雨足が弱まったとはいえ、英二はまだ店を出る気になれなかった。時間は銃二時半をすぎていた。店に置いている傘だけでは全身ずぶぬれになってしまう。仕方ないので掃除など雑務も済ませた。ほかに用事を思い出そうとした。
「そうだ、秋の新作のデザイン考えておかなくちゃいけないな」
 英二は作業台の引き出しから白紙を取り出した。まずはがさがさと荒く輪郭と描く。そのときふと視線を感じた。窓の外を見たが雨が斜めに降っているだけだった。
「気のせいか?」
 英二は再び筆を動かし始めた。横から見たスケッチを描いているとまた視線を感じた。心の中でカウントダウンを始める。三、二、一。ばっと窓を見た。さっと誰か屈んだ。英二は腰を上げた。
「一体誰だ?こんな大雨の中」
 傘を持ちドアを開けて英二は驚いた。そこには雨合羽を着てしゃがんでいるさらがいたからだ。バレたと顔に書いている。
「さらちゃん、なんでここにいるの?」
 傘を差し英二はさらに近づいた。バラバラバラッと雨粒がぶつかる音がうるさい。さらはまるで拳銃を突きつけられたかのようにゆっくり立ち上がった。怯えている。当然だ。英二は今怒っているからだ。さらが今までに見たことがない顔だ。
「今日は休みだって言ったよね?それにこんな大雨で」
 さらははっとした。どうやら思い出したようだ。英二は店が休みだから来たことに怒っているわけではない。強風や大雨が予想できたので来てはいけないと言ったのに、危ない中来たことを怒っているのだ。怪我ならまだしも大きなものにぶつけたらしたら大変だ。そんな英二の思いも知らずにさらはいつもと違う英二にびくびくしていた。その怒りの眼差しに耐えきれずぎゅっと目を閉じた。英二はそんなさらを観察するように眺めていた。ぷるぷる子犬のように震えている。
 ふとさらの口元に目がいった。桃色でぎゅっと固く閉じられていて、英二よりも小さい。薄いが柔らかそうでおそらく誰も触れていない唇。触ったらどんな反応をするかと思っていると体が動いていた。上体を折り曲げ少し顔を傾ける。そして触れた。指ではなく英二自身の唇で。ずっと雨の中にいたせいか小さな唇は冷たかった。そして想像していたより柔らかかった。
 唇の感触を確認し終えた英二はさらから離れた。さらは目を限界まで大きくして固まっていた。口が小さく開いている。我に返った英二はなんとか表情を変えないまま「早く帰りなさい」と言って店の中に入った。
 ドアを閉めると英二は一気に耳まで赤くなり鼓動が速くなった。ドアにもたれかかって口を右手で覆い、へなへなとその場で座りこんだ。
「おれは、いま、なにをした?」
 さらの唇の感触がどんなものか考えていてそれからは無意識だった。驚いたさらの顔がフラッシュバックする。落ちそうなまでに見開かれた目。さらと重ねた自身の唇には柔らかさが残り少し冷たかった。