第2話

 その夜。英二は眠れなかった。いろんなことが頭に浮かんでは消える。冷えた小さな唇の柔らかさ。落ちそうなまでに見開かれたきれいな目。小学生の少女に行なったことは無意識だった。こんなことをする人物もしくは性癖を世間ではこう言う。
「ロリコン?俺が……?」
 人並みに女性と付き合ったこともある。ちなみに一番関係が続いた女性は一つ年上で、婚約までいった。しかし女性が別の男性を好きになったため、婚約は解消した。
 それまで結局別れてしまったが、二人ほど恋人もいた。今まで少女を魅力的だと思ったこともない。だからなぜさらにキスをしたのかわからなかった。勝手に体が動いたのだ。自分がロリコンだと疑うのは当然だ。だが正直認めたくない。
 そんな風にぐるぐる同じことを何度も考えていると、夜が明けていた。疲れもとれず目に隈ができていた。それでも仕事を休むわけにはいかない。英二は準備を始めた。正直今日は客がこないことを祈った。
 しかしそんなときに限って客がいつもより多い。一度にたくさんの客は来ないが途切れることはなかった。集中できないため作業がなかなか進まない。それに出来もよくなかった。しかし集中力が続かないのは途切れることのない客のせいだけではない。それは英二もわかっていた。自分よりも小さな唇の感触が、何度顔を洗っても擦っても消えない。かえって脳に刻み込まれるようだった。
「な、なにか別のことを考えよう。そうしよう」
 英二は自分に言い聞かせた。幸い客はいないので怪しまれずにすんだ。しかし結局さらのことを考えてしまう。あのときの驚いた顔だけではない。楽しそうに話す笑顔、ガラス細工を真剣に選んでいる姿、悲しい出来事を思い出して泣きそうになっている顔。思い浮かべると知らぬ間にときめき微笑みを浮かべているが、すぐに胸が苦しくなる。英二の中でさらの存在がどんどん大きくなる。このような感情をなんと呼ぶか英二は経験上知っている。
 恋だ。
「いやいやいや、なんでそうなるっ」
 英二は自分に訂正を入れた。相手は小学四年生だ。そんな子どもに恋なんてするはずがない。だがどこか客観的に見ている部分が問う。
 それではなぜ昨日さらの唇を奪ったのだ、と。叱るだけなら言葉だけで十分だ。もしくは、褒められた方法ではないが頬や頭を叩くという手もある。それなのに、なぜキスという方法をとったのか。
 いや違う。怒っていたのではない。いや全く怒っていなかったわけではないのだが、叱ることが目的ではなかった。
 そう、ただキスしたかっただけなのだ。まだ誰も踏み込んでいない領土に触れたいという好奇心や背徳感だけではない。抑えられなかった衝動だった。しかし認めたくない、いや認めてはいけない感情だ。自分の思っていることを肯定されたい、もしくは否定されたいときに人間は第三者を頼ることが多い。英二もそうだった。ポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかける。呼び出し音が数回鳴る。しかし留守番電話のサービスに接続されたので切った。だがすぐに着信音が鳴った。画面も見ずに画面をスライドして。電話に出た。
「もしもし」
『ごめんごめん、一瞬間に合わなかったのー。どうかしたあ?』
 口調に反して野太い声が聞こえる。英二が高校生のころからの友人である旗川清志だ。いわゆるオネエというやつでネイルサロンを経営している。ちなみに清志と呼ぶと恐ろしい形相で睨まれる。本人はマリと言われたいらしいが、英二はあえて旗川と呼ぶ。それは旗川の男の格好を見ていた時間のほうが長かったからだろう。以前なぜマリなのか訊ねたところ、昔好きだったタレントの名前らしい。
「……いや、別に」
『嘘おっしゃい。あんたから電話してくるなんて滅多にないんだから。昔からそうよ。そうねえ……今晩八時、いつものお店でどう?』
 旗川と会うのは必ずと言っていいほど駅前の居酒屋だ。魚料理が中心で酒の種類も多く、なかなか美味しい。チェーン店のように大学生やサラリーマンが大騒ぎしていることもないので、落ち着いて話をすることに向いている。
「ああ。大丈夫だ」
『おっけー。じゃあねえ、えーじ。それまでお仕事が・ん・ばっ』
「きもっ」
 英二は通話を切った。全身に鳥肌が立つ。投げキスしている姿が想像できるのが嫌だ。本人いわく友人には手を出さない主義らしいので安全ではあるが、それでもときどき貞操の危機を感じるときがある。
 英二は気持ちを切り替えるように頭を横に振った。感情の捌け口が見つかったためかさっきより少しだけ心が軽くなった。



 英二が悩んでいるころ、さらは学校でぼうっとしていた。学校だけではない。起きてからずっとだ。さらは昨日のことを思い出しては余韻に浸っていた。ファーストキスが好きな人とできた嬉しさと、友達よりも大人に近づいたという優越感でふわふわとしていた。そんなさらの気持ちを知らずお母さんも友達も心配した。しかしさらはこの幸せな気持ちを誰かに話す気は全くなかった。自分だけのものにしておきたかったからだ。
 今でも鮮明に思い出すことができる。よくファーストキスはレモンの味がすると言うが、さらはそう思わなかった。特に味はなかったのは唇だけだったからだとわかるには、さらは幼すぎた。
 そんな幸せな気分の中ふと思った。キスをしたということは、さらと店長の関係はなんなのだろうか。さらの中でキスをする人たちはみんな恋人同士なのだと思っている。恋人というには年が離れている気がするが、愛に年の差は関係ないとお母さんもドラマを見ながらよく言っている。
「恋人……」
 改めて言葉にすると輪郭がはっきりした。そして嬉しさが風船のようにふくらんでいった。さらは店長と恋人になれたのだ、と舞い上がった。そして思考は方向を変えた。
 恋人同士ですることといえば、デートである。デートの定番といえば水族館に遊園地、動物園と指を折る。さらは店長とどこに行きたいか頭の中でリストを作りはじめた。



 夜の八時五分前。英二は旗川と待ち合わせている居酒屋に着いた。先に中で待っておこうと引き戸を開けると、奥から手を振る男がいた。がっちりとした体のラインがはっきりと出る七分丈のシャツを着ている。旗川だ。店員に先に連れが来ていることを告げ、彼のいる半個室となった座敷に上がる。店で一番奥まっているこの席なら、なにを話しても周りに怪しまれることはないだろう。ただ二人の関係は第三者からすれば詮索したくなるものだろうけれど、考えないようにしている。考えたところで精神的なダメージが増えるだけだ。
 英二が座布団に腰を下ろすと、旗川が店員に「生中二つ」と注文した。ふと旗川の指先を見るとネイルのデザインが変わっていた。確か前は白でラインストーンが側面に沿ってついていたが、今日は爪の先が茶色で真ん中あたりに流れ星が通ったような金色の筋が横に走っている。英二の視線に気がついた旗川は「ああ」と言って爪を見せた。
「変えたのよ。これシートなのよ。かわいくない?」
「どうでもいい」
 英二は切り捨てるように言うが、いつものことなので旗川は気にしていない様子だった。すると店員がビールのジョッキを「生中でーす」と言いながら二つ持ってきた。お通しの鮭の南蛮漬けらしき小鉢も二人の前に置いた。それらを受けとると店員は一礼して、別のテーブルのオーダーをとりに言った。すでに使い捨てのおしぼりはそれぞれの席の前に置かれていた。おそらく旗川が来たときに店員が持ってきていたのだろう。
 それぞれ手を拭き二人は乾杯をすると半分くらいまで一気に飲んだ。アルコールが喉を焼き、ビール独特の苦みが口に広がる。昔はこれに耐えられなかったが、いつの間にか好んで飲むようになった。年をとったということなのだろうか、それとも苦みに慣れたのだろうか。できれば後者であってほしい、と英二は思う。人間は誰しも己の年齢のことを考えたくない生き物だ。
 メニューを見て、旗川が指さしながらいくつか注文する。
「造り盛り合わせと軟骨からあげと……ああ、うまき卵。あんたは?」
「サンマの造りとホッケ」
「以上で」
 店員はオーダーを繰り返して確認するとお辞儀をして、厨房へ姿を消えた。
「あんたホッケとサンマ好きよね」
「お前はうまき卵好きだな」
 英二は箸を取り小鉢を食べはじめた。視線に気がつき顔を上げると、旗川は頬杖をつきながら英二を見ていた。
「……なんだよ」
「なんだよ、じゃないわよ。さっさと話しなさいよ。そのためにこっちは、かわいい男の子をデートに誘う計画を延期してまで来たんだから」
「マッチョが好みとか言ってなかった?」
「あんた、巨乳と美乳どっちが好きって言われて選べる?」
「なるほど、どうでもいい」
 旗川はため息を吐いた。それは自分の例えをわかってもらえなかったからではない。目の前の友人が、まだ悩みを打ち明ける気がないからだ。
 英二は旗川にとって数少ない友人だ。自分が同性愛者だと打ち明けたときも驚きはしていたが、たった一言「いいんじゃね?」とだけ言っただけだった。両親はショックを受け嘆いた。このとき旗川はどんなことがあっても友人に、というより英二には手を出さないと決めた。彼が旗川を一人の友人として扱うのなら、その誠意に答えるべきだと決めた。心の広い友をなくしたくないとも思った。
「まあ、ぼちぼち食べましょう」
 アルコールも入れば饒舌になるだろうと旗川は気長に待つことにした。
 最初に運ばれたのは軟骨のからあげだった。英二がレモンを絞り、男二人が小さな深皿に入ったからあげをつつく。正確には一人の中身は女だが、誰もそこまで気にしない。
「あんた、最近仕事どうなのよ?」
「どうって……まあまあだよ。客も増えてきたし」
 指についたレモンの果汁をおしぼりで拭きながら、英二は答えた。話題は次に移る。
「そう言えばあの子は元気?前に話していた常連の女の子。ほら、毎日来るっていう……さらちゃんだっけ?」
 英二の動きがぴくりと止まった。旗川は英二の変化に気がついた。そして英二は深刻な顔をして旗川に訊ねた。
「お前さ……自分が同性愛者だってわかったとき、やっぱり悩んだか?」
 旗川は突然の問いに何事かと思いながら答えた。
「もちろん悩んだわよ。自分はみんなと違う。普通じゃないことがとても苦しかった。普通じゃなくってごめんなさいって、周りにずっと思っていた。自分は異分子でここにいちゃいけないんだって……。苦しいけど誰にも言えない、異常だってわかっているから。異常な人間を受け入れてもらえるほど、この世界は優しくないって思っていたのよ」
 事実未だに旗川のような同性愛者は好奇の目で見られる。世間がどれだけ寛容になってきても、某都市の区で条例ができようともそれは変わらない。
「それでも調べてみれば、あたしみたいな人は思ったよりも多くて安心したわ。ああ、独りじゃないんだって」
 英二は旗川の話を真剣に聞いていた。旗川の頭に一つの可能性が浮かんだ。
「ま、まさかあんたこっちの世界に……」
「そんなわけないだろ」
 斬るように否定してから「……いや」と言葉を続けた。
「似たようなもんかもな。少数派という意味では」
「……どういう意味よ。なにがあったの?」
 英二は残っているビールを一気に流し込んだ。ちょうどホッケとうまき卵が運ばれてきた。英二は自棄気味にホッケに手を伸ばした。しかし箸を入れただけですぐにやめてしまった。ホッケに二つの小さな穴があく。旗川は注意深く友人を観察した。怒っているならばもっと箸さばきが荒いはずだ。つまり怒りではない。しかし英二はまだ口を開かない。
「……ビール、もう一杯頼む?」
「ああ」
 英二はまださらのことを話す勇気が出なかった。旗川も経営者なので暇ではない。それはわかっているが、どうしても口に出すことができなかった。追加注文したビールはすぐに来た。煽るように飲む。
「一気飲みはよくないわよ」
 旗川が心配そうに言った。気合いを無理矢理入れた英二はようやく口を開いた。
「昨日すごい雨だっただろう」
「え、ええ。さすがに従業員の子たちも危ないからお店を閉めたわ」
 旗川は一体なにを言い出すのかと思えば、という顔だった。英二は気にせず続ける。正確に言えば気にする余裕などない。
「俺自身は店に来ていたんだが営業はしていなかった。あんな雨の中するつもりもなかったし。天気予報でも言っていたし、さらちゃんにも前日にそう言ったんだ。
 けれど、あの子は豪雨の中雨合羽を着てやってきた。だから叱った」
「当然ね。なに、そのせいで嫌われたの?」
「いや……そうじゃなくて」
「もうっ、歯切れが悪いわね!はっきり言いなさいよ」
「……キスした」
「はっ?」
 旗川は英二の言ったことが瞬時に理解できなかった。今の話で誰とキスしたというのだ。
「え……まさかそのさらちゃんって子と?」
 英二が頷いた。そしてタイミング悪く「お待たせしましたー」と店員がサンマの造りと造りの盛り合わせを持ってきた。注文したものが揃ったことを確認すると、店員は厨房へ戻った。サンマも盛り合わせの造りも新鮮でおいしそうだったが、今はそれどころではない。
「気がついたらキスしてたんだ」
「あんた……どんだけ溜まってたのよ?」
「そんなはずはないんだが……」
「じゃあ決まりね。あんた、さらちゃんに惚れてんのよ」
「うーわー否定してほしかった……。その可能性を一番に否定してほしかった。まだ溜まっている説を、無理やりにでも推してほしかった」
 英二は両手で顔を覆った。旗川からすれば勝手な要求だが、気持ちとしてはわからなくもない。旗川も最初は自分の感情を押さえこみ、否定していたからだ。
「だったらあたしに話したこと自体が間違いね。あたしは人を否定せず広い心で受け入れるタイプなのよ」
「けどこんなこと、お前以外に話せるはずないだろ……」
「まあね。それで、あんたはどうしたいのよ?」
 旗川に訊ねられて英二はきょんとした。どうしたいという言葉の意味が、まるで生まれて初めて聞いた言葉のように理解できなかった。そんな彼に旗川は先程より丁寧に問うた。
「あんたはその感情をどうしたいって思ってんのよ。消したいの?隠したいの?それとも成就させたいの?それ以前に向き合いたくないのか、はっきり自分で答えを出したいのか。それ次第で話は変わんのよ」
 旗川はようやく冷静になりうまき卵に箸を伸ばした。きれいな箸さばきでひと口大に切る。色恋に限らず相談ごとをよくされる旗川は、他人の心の整理を手伝うことに慣れていた。英二は旗川の言葉を初めて食べるもののように、慎重に一言ずつ噛み砕き消化する。
「俺は……ロリコン、ということになるのか?」
 不安そうに英二は訊ねた。
「んー、今までそういう女の子を好きになったことは?」
「ない」
 女子高生は目の保養にはなるが、手を出す気になれなかった。現実的ではなかったし、面倒だと思ったからだ。さらに幼い小学生なんてもってのほかだった。
「なんでこうなっちまったんだか……」
 英二は嘆いた。まったく心当たりがないのだ。旗川は「そんなもんよ」と言った。旗川自身もなんで男性が好きなのか、説明できない。ただそういう人間だったのだ。
「今までそういう子を好きになったことがないってことは、ロリコンだったというよりもその子自身のことが好きなんじゃないの?」
「……相手は小学生だぞ?」
「あたしの元恋人たちも全員男よ。つまり、恋は年齢だけでなく性別も関係ないのよ。月並みだけどね。もしも関係あるんだったら、この世に年の差婚やゲイバーなんて存在しないわ」
 しかし、いざ自分が当事者になると戸惑いを隠せない。そんな英二の心情がわかる旗川は一つずつ質問をする。
「あんたは、そのさらちゃんっていう子とどんな関係でいたいの?このままなかったことにして、お客さんと店長のまま?それともまったく関係のない赤の他人?」
 英二は黙った。正直自分がまださらのことを本当に好きなのか実感がないのだ。
「もしも俺がさらちゃんのことが好きなら……もう会わないほうがいいと思う。彼女はまだ子どもだし、同じくらいの年の子たちといっしょのほうがいいだろうさ」
 旗川は英二の顔を見つめた。戸惑いの表情しか浮かんでいない。
「あんたがそう思うんならそれでいいんだろうけど……でも覚えておいてほしいことがあるわ。
 自分の本当の気持ちに気がついたとしても、それを受け入れたほうが幸せになれるのよ。抑え込んだって限界はあるのよ。漬物石よりもずっと重いもので押さえつけたって、開くときは開くのよ。消しゴムで文字を消したってカスが残るし、筆圧で紙にあとがつく。気がついたら、元のようになにもない状態になんて戻ることはできない。だったらせめて受け入れなさい。そうすれば意外と道は見えるもんよ」
 そう言って旗川は「ほら食べなさいよ」と残った軟骨のからあげと造りを、英二のほうに近づけた。
 英二は旗川の言っていることが頭では理解できても、自分の身に起こっているという実感がなかった。まるで小説やドラマを見ているようだ。それでもきっとこの言葉は英二を救うだろう、と直感でわかった。
「なんなら食べさせてあげよっか?はい、あーん」
「自分で食うわ。気色悪い」
 英二はサンマの造りを食べたがあまり味がしなかった。その日は居酒屋が閉店する深夜一時まで、浴びるように飲んだ。



 窓から差す朝日で目を覚ます。英二はもっそり動き出す。なにも見えない。一枚の紙が英二の顔を隠すように貼られていた。剥がすとなにか書かれている。
『すっごく重かったんだから感謝してよね!諸々の代金はお財布から払いました』
 財布と開くと福沢諭吉の姿ははなく、仲間がいなくて寂しそうな野口英世が一人しか残っていなかった。食事代、英二を運んだタクシー代、手間賃諸々として抜かれたらしい。
「まあ仕方ないか」
 そしてようやく寝間着にも着替えず、そのまま倒れるように寝たことに気付いた。そういえば途中から記憶がない。確か居酒屋の店長から「もう閉めるんで……」と、申し訳なさそうに言われたことは覚えている。頭が割れるように痛い。
「二日酔いとか久々だ……」
 かといって二日酔いという理由だけで、店を休むわけにもいかない。頭痛と体のだるさと戦いながら起き上がって準備をした。途中でコンビニによって、二日酔い用のドリンクを買うことにした。なんとか食パン一枚を詰め込み、頭に響かないようにそろそろと店へ向かった。
 二日酔い用のドリンクを飲むと頭痛もだいぶましになってきて、接客くらいならいつ通りこなすことができそうだ。今日は在庫確認や新作のデザインなど、製作以外の仕事をすることにした。
 午後になると表の人通りも増えてきた。英二はなるべく手を止めないようにした。そうでなければ、さらのことを考えてしまいそうだったから。しかしその努力も無駄になってしまった。
 チリリンとドアベルの繊細な音が客を知らせる。事務仕事をしていた英二は顔を上げた。
「いらっしゃいま……」
 店内に入ってきたのはさらだった。どくんっと心臓の大きく音が鳴る。入ってきたのは、さらだった。
「こ、こんにちは」
 さらははにかみながら挨拶をした。英二は表情を険しくした。それを見てさらはびくりとした。
「なぜ来たんだい?」
「て、店長さんに……会いたかったから」
「帰りなさい。もうここに来てはいけない」
 英二は照れているさらに、切り捨てるように言った。今までそんなことを言われたことがないさらは、泣きそうな顔でけれど強い意志の宿った眼差しで英二に「いや」と言った。
「だってあたし、キスされる前から店長さんのこと……好きなんだもん」
 英二は驚いた。そんな告白をするさらの顔には幼さなど残っておらず、女性としての色気がわずかに出ていたからだ。英二はぞくりとした。このままさらの色気に引きずり込まれ、戻って来られなくなる気がした。
「帰りなさい」
 静かに低い声で言った。まだなんとか感情を抑えられる。しかしさらは「やだ」と聞かなかった。英二は脅しをかけてみることにした。さらの元に近づく。
「このまま帰らないなら、キスよりひどいことするぞ」
 これで帰るだろうと、英二のことを嫌いになるだろうと思った。精一杯怖い顔を作る。しかし逆効果だった。
「いいよ。店長さんになら、なにされても大丈夫……」
 さらの浮かべた微笑みがすべてを受け入れる聖母のようで、英二の心がぐらつく。真っ白な、なにもわかっていない少女を自分の色に染め上げることを想像すると、快感でぞくりとする。そんな自分に気がつき慌ててさらを追い返す。
「いいから帰りなさい!」
 英二はさらを店の外に押し出した。そして扉を乱暴に閉め背中で押さえた。さらがなにもしてこないことがわかると、その場に座りこんだ。さっきの感情を思い出す。
「俺……本当にさらちゃんに惚れちまったのか。やっべえ……」
 英二は心の中で自分に問う。頭は大丈夫か。その気持ちは錯覚ではないか。そして浮かぶ答えは、このさらへの気持ちは決して錯覚ではない、ということだった。
「あーあーもう……」
 英二はいらつきながら、がしがしと頭を掻く。さらのことを少しでも考えると、欲望が今にも爆発しそうになる。
 あの白く柔らかそうな頬をこの手のひらで包みこみ、まだ小さな体を力強く抱きしめたい。またあの唇に口づけしたい。彼女の細い首筋に痕を残して自分のものだと主張したい。耳元で愛を囁き一生離れないようにしてしまいたい。
 心の底から溢れ出る思いをどうしたらいいかわからず、英二はその場でしばらくうずくまっていた。